おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

【グレイテスト・ショーマン】松永兄弟物語

リアル・スティール』の時も思ったけどヒュー・ジャックマンは自分が超いい人だからドクズ親父をやりたがるのかな。と思っていろいろメイキング見てたら「手術翌日に医者から止められてるのに出演者の熱唱に気分が乗ってついつい歌いだしちゃった」動画を見てとにかくエネルギーがある人なんだな……とちょっとだけ得心がいった。全方向にエネルギーが溢れている人というのはいる。

19世紀の興行師P.T.バーナムがサーカスを作っていろんな見世物をやったけどやっぱ家族は大事よねっていうお話。家族は大事よねって話にしとけば主人公がドクズでもだいたいいい話になるのでアメリカ映画ずるい。

秋元康が宣伝してるってことで一瞬ちょっとムカつきリアクションが出たけどまあ秋元康は松永兄弟の後継者なので(個人の見解です)その松永兄弟と同質的興行師のお話を褒めて宣伝するのは完全に順当。

しかし小人プロレスの話の時にいつも思うのだけど、いるんだかいないんだかわからん「人権団体」を批判する人たちは、どこのポジションで文句言ってるのかなーってこと。だってだいたいの人はサーカスに出ている人たちの立場にはなれないわけで、もちろんサーカスに石を投げた地元の人たちでもないわけでしょう、悪役のつもりではどうやらなさそうだし。

んじゃあやっぱり客席に座ってワアワア言ってる人達でしかないわけだけど、お金払って彼らを見世物と消費している彼らだって、小人や髭女たちをなんか異形のものとして社会の一部としては受け入れず、洗濯物のシーツの向こうに閉じ込めていた以上、絶対に、変わらなければいけない人たちなのだ。いくらサーカスの人たちが初めて受け入れられた瞬間をお金を払って見ていたからといって、あんたたちの罪だって免れるわけじゃないんだよ。

小人プロレスの話にしてみれば、そもそもフジテレビの芸能部が全日本女子プロレスを放送した際に必要としていたのは「歌って戦える女の人」の映像なわけで、その時にまあ小人プロレスはいらないよね、苦情くるかもしれないし……みたいな判断って、別に人権団体のせい、というよりは当時ひたすら成長を遂げていたテレビの論理によって排除されたということでしょう。それは果たして人権団体の抗議によって起こされたものなのか?といったらそんなん単なる切断処理でしかなくて、市場原理とか、視聴者の感情とか、要するに私たち自身の問題なわけじゃないか。もしも「いや、俺は小人プロレスがテレビで見たいんだ。小人はプロレスをする権利があるし、他のあらゆる仕事に就職する際に差別されない権利がある」と意思表示した人ならば何か抗議を言うのも合理性があるかもしれないけど、そもそも小人とされる人の生活とか仕事とかにはなんの興味もなくて、ただ人権団体という正しさを振りかざしているように見える曖昧な存在を腐したいだけにそのことをその時だけ持ち出すのはあまりにも卑劣でしょう。少なくとも小人プロレスは、小人の人は面白い、笑っていい、という前提を作り出してはいたわけで、それは女の人の戦いは滑稽で面白い、普通の女ではない異形の戦いは卑猥で面白い、という前提を持って受け入れられていた女子プロレスと変わらないんじゃないのか。選手本人がプロとして振る舞うことと、それを面白がって消費する人たちが同じ気分を共有してもいいつもりになっては絶対にいけない。そこには最低限、尊敬くらいはなくてはいけない(女子プロレスを見ていればわかるが、いまだにそれすら持てない人が多すぎる)(スターダムのヤジにこの前やっと注意のアナウンスがいってロッシー遅いけどすべきことをやったよ)。実際の試合すら見ていない人に、その尊敬があるのか、ということでしょう。

たとえば一部の成長ホルモン分泌不全性低身長症は今ではホルモンの投与によって治療が可能になっているし、低身長を理由にした就業差別も少しずつではあるけど改善しつつある(もちろん私も当事者で、改善しつつある、なんて無責任な物言いは本来なら噴飯ものだ)わけで、そもそも小人プロレスを職業として選ぶプライオリティは当時よりはずっと低い。今では普通のプロレス団体だって新人の募集と育成には苦労しているわけで、小人プロレスだけ人権団体のせいにしていいと考える発想の出所こそ私は見直した方がいいんじゃないかよ、とすら思う。

たとえばリオネル・メッシに対して「ホルモン療法しなくても小人プロレスできたのにね」なんて言わないでしょう。彼の治療が高額で、多くのサッカーチームが彼の才能を欲しながらも援助をためらっていたのは有名な話で。

実際のところ松永兄弟は社会が担うべき福祉の部分を肩代わりしていた、半分くらいは闇社会の方の人なわけで、そのことは社会の一員たる私たちは反省すべきであって、「それもセーフティネットだし」みたいに開き直る態度をとれば、今度は私たちの足元に同じ論理がやってくるに違いないよ。

映画の話に戻るけど、P.T.バーナム半生記のこの映画が割とちゃんとしているところはバーナムは単にやりたいようにやっただけっていう部分はブレないところ。彼は偉い、社会の片隅に追いやられた人たちにスポットライトを当てた!とかしない。彼が調子に乗った時にカウンターとして繰り出されるサーカスの演者たちの「THIS IS ME」が図抜けた出来なのも当然のことだ。

彼は虚構をいいように扱って真実とか伝統とかに砂かけてた人で、映画の演出にも虚構めいた安っぽいキラキラが随所に見られるわけだけど、だったらあのオペラはもうちょっとちゃんとした、本物っぽいオペラにしてくれても良かったのでは……という気がする。そういう細かいヤバさのせいで真面目に色々と語る気が起きないという構造も、バーナムリスペクトなのか……。