おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

プロレスについて(序)

プロレスについて語るべきことが多くある。
プロレスを知ってから、私の見る世界の解像度は明らかに上がった。曖昧として指標のなかった世界は、プロレスを通してみるとあまりにも自明だった。その気づきを経た今となっては、プロレスへの視線は明確に理不尽であると断言できる。
「所詮はプロレス、真剣に受け取る方が馬鹿なのだ」
幾つものごたごたや喧嘩を批評し、観察し分析しているつもりの人々の口から、この言葉を何度聞いただろう。つまりここで語られる言葉の意味は、「観客、オーディエンスに向かってのパフォーマンスに過ぎず、見世物でしかないやりとりである」という揶揄だ。この言葉を発した者たちは、――私ははっきりと断言するが――何も考えていない者たちだ。何も見えておらず、何も省みない人たちだ。たとえばちょっと昔に、このようなことを言う人がいた。
「本当に田舎のプロレス。ロープに投げて帰ってきて空手チョップで一回倒れてみたいなやりとりの中でやっている。私はある意味で茶番だと思う」
「茶番」! なんとわかりやすく、典型的でステレオタイプなプロレス評だろう。ステレオタイプというのは、この「茶番」という言葉を指して言っているのではない。プロレス、あるいは自分が蔑むものに対して「茶番」という言葉を投げかけることで、自分が優位に立ったと勘違いできる、そのあまりにも臆病で卑怯な態度のことを、ステレオタイプと言っているのだ。彼らは社会の周縁にいつもそういうものを必要として用意する。あるいはそういうものがある場所を、社会の周縁と呼んでいるのかも知れない。
けれど私は、ここでも断言したいのだけれど、プロレスを周縁の、真剣に語るに値しない、欺瞞に満ちたパフォーマンスだと侮る態度は確実に、世界を見る目を曇らせて、いま何が起こっているかを理解する手がかりをぽろぽろと指の隙間から落とさせる要因となっている。「なぜ、私の手のひらには何も残っていないのだろう?」何度も私は嘆いて叫び、その手で顔を覆ってあとは涙だけが滴り落ちることになった。
いまならわかる。それは私が侮っていたからだ。プロレスを、プロレスに類する何か世間的には胡散臭くて真実めいて見えないものを鼻で笑い、私は足元にわだかまっているものを理解しないまま低俗なものとして蹴りながら生きた。そこにあるものを見ようとせずに、しかしそれはわたしの一部だったのだ。
いまならわかる。それをすくい上げることができれば、それを手のひらにとどめることができれば、それにはとてもわかりやすい一般名詞を見出せるはずだったのに。
神話だ。
ゆるやかな階段のようにくだっていく指先からその付け根の控えめな盛り上がりまで。もっとも低い場所、落ちくぼんだその中心に濁ったような曖昧さを揺らめかせながら、いくつかの、いくつもの色を混じらせてその水面に複雑な輝きをもたらしている。
色、ひとつひとつの意味をわたしは知りたくてたまらない。いつかわたしが腕を下ろしたとき、流した涙と同じように輝きが散って地面に落ちるまで、その水面を、溶けあってひとつのものに見える神話の意味をわたしは見つめ続ける。
プロレスについて語るべきことが多くある。誰も聞いていなくても、私は虚空に向かって話そう。そのように人生は費やされるべきなのだと、私はあの四角いリングと三本のロープのどこかから響くコロスに、教わったのだから。