おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

【サーミの血】ながされた血ではたりないのだと

私が私のままでいられない世界がある。そんなこと、誰しもが抱える業じゃないかと誰かが言う。ありのままの自分なんて存在しなくて社会の鋳型にゆるやかに人は取り込まれていくのだと。

エレ・マリャはその鋳型に自分を合わせることすら許されない。野蛮で臭いラップランドのサーミは社会の鋳型に入る権利すらないと、万能感に満ち満ちた少年たちに嘲笑われて。身体検査のシーンの絶望たるや、サーミでない私はしかし自分が女性であるという一点でその恐怖に汗が噴き出した。自分を嗤うものをどれほど強く見つめ返したとしても、「俺はお前の裸を見た」と言って勝利を宣言されれば、現在の社会規範は女を敗者にできるのだ。そしてその敗北を自動的に作り出す、笑顔に覆い隠された研究あるいは保護目的の調査。父祖の遺骨を奪われた、先住民族の嘆きを思い出す。エレ・マリャがどれほどの過酷を耐えて鋳型に入り込んだとしても、そこに待ち受けるのはあの少年たちよりもずっと残酷な道行きなのだ……。

エレ・マリャの肉体の隅々から、花柄が染め抜かれたドレスを撫でる指先や美しく編み上げた髪の先から溢れ出す彼女の強さと生命力は、この映画を何か特別なもの、差別の単純化できない複層性を浮かび上がらせるもの、にしている。っていうかいくつなんだ、エレ・マリャ。少女のようにも見えるし、そうでないようにも見える。まるで自身の受けた過去の傷と未来の傷を全てその現在の体に抱え込んでいるかのようだ。彼女は本物のサーミであり普段はトナカイと暮らしていて、女優としての仕事は初めてだという。映画の魔術は空虚なプロフェッショナル論をときに無効化する。

福祉や教育の充実によってある種の理想郷と言われる北欧の世界にももちろん差別はあるという当たり前のことに気づいて、そして私たちは自らの背後にある、ないものと思いたい私たちが当事者として蔓延させる近くの差別にもまた、気づくことになる。気づかなければいけない。