おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

【ELLE】私は私として生きる

みんな、連続殺人事件とレイプ事件が大好きだ。多くの犯罪報道は大半が娯楽として消費される(事件に怒りを感じるのもまた消費行動の一つだ)。特に後者の場合、男女の非対称性に基づき、被害者は(たとえ男性でも)弱い方の性を持つものとして侮られ、何重にもわたって主体的人格もまた侮られる。

この映画の中心であり圧倒的な主体性を持つ彼女(ELLE)であり、父親が27人もの人を殺してしまって自らも有名人になってしまったミシェル。彼女は冒頭、謎の人物にレイプされるが、彼女は淡々と日常生活を続ける。掃除をして寿司を頼んで息子と談笑する。この一連の映像を異様なものとして見る人が意外と多いのに驚いたけれど、こういった事件で被害者が事件の直後から淡々といつも通りの生活を過ごしてしまうのは実際のところよく聞く話だ。そしてそれをもってして、「被害者にとっては大したことではない、むしろセックスを受け入れていたのでは?」と述べる人もいる。最悪なことに。

どんなことがあっても、私は私としての人生を止めることはできない。なのに他人は私の人生を評価しようとする。君のことをわかりたいからと言って。わからない君は受け入れられないからと言って。ときにその欲望に応じるため、私はステレオタイプの振る舞いをして、他人を安心させようとする。ステレオタイプの振る舞いは、決して現実に即したリアルなものでなかったとしても。

という葛藤をミシェルははじめから持っていないので変な人に見えるんだろね。ミシェルはレイプ犯を特定した後もすぐに何かをどうこうしようとはしない。ミシェルがしたいことの中に、ミシェルがする行動の判断の中に、彼をどうこうするという選択肢が浮上してこないうちは、彼女は何もしない。「普通はすぐに警察に行くはずだ」「普通は怒りで相手を殺してしまうはずだ」でもそれって、「普通はものすごく抵抗するはずだ」「普通は日常生活なんて送れず泣いてしまうはずだ」ということと同じだ。ミシェルはそのすべてを並べて、すべてを自分の価値判断に委ねる。時間と状況の流れによってはその価値判断は変化する。その変化もまた私たちを再帰的に苦しめることがあるのに。確かに、実際にこんなことできる人はいない。普通を持ち出す他人に引きずられてしまう。そういう意味ではミシェルは変なのかもしれない。でも、変になった方がいい。ミシェルみたいになれなくても、ミシェルみたいでいいと思っていい。

あと、ハリウッドの女優がみんなこの仕事を断ってイザベル・ユペールが引き受けてパリの映画になったことについてだけども。イザベル・ユペールはとにかく美しいしミシェルとしての矜持を肉体全てに漲らせている演技は本当にすごいものだけど、だからと言って「これぞ本物の女優」「他の女優はお高くとまってやーね」みたいな評価に還元するのは絶対違うから気をつけよう。キツイ役やったり無茶苦茶な役作りしたりするのはその人本人の役者論の問題であって俳優のすごい・すごくないを決める基準にはならないからね。仕事として受けるにはちょっと自分に合ってなかったり演じたいタイプの役柄でなきゃ断るんだから、それはそれでプロの判断なんだから。おっぱい出せば偉いみたいな風潮といっしょだけど、それって役者の技能をバカにしていることでもあるんだから、早く消えてほしい。