おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

「DDT両国ピーターパン2017」古びていく文科系男子おじさん

毎度毎度、DDTの両国大会は長丁場の割に盛り上がりに欠け、特にメインはなかなか跳ねない(セミなどで対外的には目玉となる試合をやってメインでは今後の団体の趨勢を決める試合をやるからでプロレス団体としては正しい)んだけど、今年は特に「プロレスってこんなんだっけ?」感が強くて今後が心配になってしまった。

ただメインに限らず、「20周年迎えたけどDDTこれからどーすんの?」っていうのを示す大会にはなっていたと思う。興行のテーマを奏でていたのは休憩前の高木三四郎vs男色ディーノ戦で、実質的なメインの試合はそこにあった。内容はグダグダで、「母親とキスでダメージ」って面白いか?とか、結婚をかけた試合なら相手も用意しときなよどうせ勝つんだし、とか気になるとこばっかだったけど……。

で、なんでも凶器として認められるルールから発生した多数の乱入者と全権を委譲された以降のディーノの介入から感じる圧倒的古さから、DDTがマジで岐路に立っていることがはっきりとわかったし、団体内にはそれを打開する思想はどうやらなさそうだということも理解されて、インディー団体がほぼメジャーになってしまった後、どのような目標を立てるのか?という難しさを痛切に感じた。

プロレスって体育会系のイメージあるけど、俺たちは繊細でピュアーでサブカルにも精通した新しい切り口を持ったプロレスをやるっす!というのがDDTが今まで貫いてきた思想で、そしてそこには確かにマーケットがあった。試合を見れば見るほど、DDTの所属選手の真面目さは読み取ることができる。プロレスが好きだけど、他人を抑圧する乱暴者にはなりたくない。そんな沢山いるプロレス好き少年の夢みたいな団体だと思う。

しかし20年経つとかつて新しかったものはびっくりするくらい古く見える。平野ノラもびっくりの古さ。平野ノラはわかってやってるけどDDTの人たちはマジで気づいてないっぽい。その筆頭要素が何と言っても「男色ディーノのホモ(差別的な言い回しだが、DDT内では普通に入場アナウンスで使用され続けている)ギミック」だろう。私はあの入場が無理すぎてDDTの試合会場からは足が遠のきがちだ。

「男性の同性愛者はセックスモンスターでありあらゆる男性の尻を狙っている」という差別的な思い込みをひたすらに強化し、そこから滴り落ちるどこまでも非道でわずかなおもしろ(面白くないけどおもしろとして認識されているもの)を利用する態度は今回の興行でも多用された。楽しんごを含めたオネェ軍団が凶器として使用され、敵勢力の同じく助っ人凶器を脱がしたり酷い目にあわせたりして撃退する、という一幕には心底うんざりさせられた。おまけに楽しんごは翌週の両国で開催される全日の興行にも出るという宣言を残している。そちらも観戦予定なのでうんざりは尾を引くこととなるがまあこれは別にDDTだけのせいじゃないですね。

白人女性二人をはべらせた佐々木大輔の入場も同質的な古さに満ち満ちていた。卑屈なオリエンタリズムと時代遅れのマチズモの合わせ技である。高橋裕二郎も似たようなことをやっていたが、そこにはみっともなさ、嫌われてやる意思が感じられてこちらは「前時代的だな」と一笑に付す余地があるのだが、どうやら佐々木は大真面目にやっているらしい。

こうなってくるといつぞやのササダンゴマシーンの「女性ファンは小銭」発言も思い起こされる。すべての根が同じなのだ。同性愛者の孤独死を解決する手段が(おそらく異性との)結婚、というのも異常な話である。

結局のところ、キラキラと輝くプロレス少年たちのネバーランドは単なる古臭い現実になってしまったのだ。ネバーランドは楽しかった、美しい景色があった、抑圧から自由にしてくれる場所だった。しかしその土地を覆っていたものがいつの間にか、時間の経過によってボロボロと剥がれ落ち、実は美しい景色はほかの多くのものを踏みつけにして成り立っていたのだと明らかになってしまった。かつては抑圧されていたはずの彼らの土地が、どうにかして創造した彼らの楽園が。

そこはネバーランドではなかったから、鏡に映る彼らの姿は傷つきやすい文科系男子ではなく、抑圧を再生産するおじさんでしかない。

他者を害し、それによって得られる余剰で楽しさを演出するフリをし続けるのは、ただつまらないだけの興行よりもずっとずっと悪い。そしてそれゆえに、今回掲げられた目標や課題を達成する道筋は非常に困難なものだろう、と推測できる。プロレスは、国を問わないという意味でも人種や性別、あらゆる文化を乗り越えることができるという意味でも、グローバルなものなのだから。