おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

【午後8時の訪問者】死んだ人が生きる場所

「死んだ人はわたしたちのなかで生きている」という言葉からは腐臭が漂っているが、そのにおいが何に由来するかと言えばもちろん死体である。どうしようもない死という現象をどうにかしてポジティブな色に糊塗したいという欲求をわたしたちは抑えきれない。でも本当は、見たくない死、わたしたちのせいで生じてしまった死にこそ、この言葉は用いるべきではないのか?

事件が起こるまでに描かれる主人公の行動のバランスは絶妙に普通でリアルで、そしてそれでも研ぎ澄まされた責任感は普通の人のそれではないという予感を覚えさせる。わたしたちの中にいる英雄が英雄として現れる瞬間。それは『サンドラの週末』と同じだ。その瞬間は、まさしく「わたしたちのなかで生きる死人」によってもたらされる。
愛する人の死を「わたしたちのなかで生きる死人」にするのはなんとも容易い。痛みを癒すもの儀式を多くの人が必要とする。名もなき人の死は、なかったことにされる。名もないままでよしとする。つまり死とは人間の主観における明確なダブルスタンダードなのだ。この言葉が漂わせる腐ったにおいの原因はそこにもある。

あまり効率がいいとは言えない、医者の仕事をしながらの捜査はミステリとしてのカタルシスを観客にもたらすことはないが(過失ではなく慎重にその快楽は排除されている)、患者に話を聞き、死んでしまった女性の写真をさまざまな人に見せてその名前を求めるうちに、彼女は事件の真実ではなくもっとむき出しのわたしたちが普段見ないようにしている〝真実〟を見つけ出し、そしてあろうことかその〝真実〟と一体化し始める。ラスト、事件の真実と向き合う彼女はもはや犯人やその夜起こったことを見る目を持たない。なぜなら死んだ人は彼女のなかで生きているからだ。

生きることは過酷で、〝真実〟を見つめて生きることはもはや何かの刑罰のように自身を傷つける。
でも、わたしたちのせいで死んだ人を自身のなかで生きることを認めることでしか、わたしたちは後悔を弔うことはできない。