おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

女子プロレスに関する私なりの偽史<全女史観・長与史観>と差別について

女子プロレスは誰のものだろうか?
もちろん、女子プロレスラーのものだ。
でも、おそらく、そうでない時代があった。

ある作家が差別の話をするときに小人プロレスの話を持ち出して人権団体の圧力のせいで彼らが職を失ったという謎の主張をして「?」となったのだが、そこに付帯して発生したやりとりで少し気づいたことがあったのでちょっと書く。

女子プロレスと小人プロレスは、つまりは全女というパッケージは、見世物だったのだ。
もちろん試合をするレスラー当人は、純然たるプロ意識を持って、素晴らしい試合をやろうとしていたはずだし、実際素晴らしい試合をやっていた。ルチャの動きはプロレスをはじめて見る人にも驚きと感動を与えるが、おそらくそれと同じかあるいはそれ以上の説得力を小人プロレスは持っている。人間が当然してしまう反射行動を膨大な練習量と無茶とも言える反復で封じ、〝見たことない〟動きをする。巨大で筋骨隆々なものを愛でる方向性とはまた別の、しかしそれは本質的には同じだ。弱き存在であるただの人、でないもの。人ならざるもの、超越者、あるいは神がリングの上には現出する。ジャイアント馬場の威容が神を連想させるのと同じように、腕を胸の前で組んだままロープに投げ出され、しかし何事もなかったかのようにいつの間にか両足で着地をして戦いを続ける。あんなこと、普通の人間にできるはずがない!

女子プロレスは見世物だ。それは女子レスラーのしていたことが見世物だったわけではなく、その興行を仕切る人たちと、それを見る観客の視線がその場をそう規定していたからだ。戦う女。いがみ合う女。美しくない女。それは社会の規範から外れた異形であり、滑稽な、いずれは消えてなくなるまぼろしだった。今でもこういう視線を女子プロレスに投げかける人はいっぱいいる。女子プロレスをはじめてみた男性から「強くて美人なんて、かなわないな〜」とかクソみてえに中身のない感想を聞かされることはたびたびあるが、女性に対しては基本的にかなう前提で世界を見ているんだなこの人は、とわかってとてもいい。

しかし長与千種の自我は観客や松永兄弟の思惑などいとも簡単に薙ぎはらうほどの異形だった。
ソフトボール部で下級生に慕われた長与は人を惹きつける天賦の才とそれを分析し使いこなす賢明さをリングの上で大いに発揮した。その自我はタッグパートナーであるライオネス飛鳥を真っ先に喰いちぎり、しかし命名されえぬ抑圧の中でかろうじて息をしていた少女たちに希望を与えた。「あのひとは、わたしだ!」
『1985年のクラッシュギャルズ』の記述を信じるのなら、長与千種はそもそも女子プロレスのマーケットの様相すら変えてしまった。客席の少女たちは「わたしたちのための女子プロレスが理解できない」他の観客を追い出し、リングを彼女たちの祭壇にしてしまった。松永兄弟が作り出した、若い女性たちをいがみ合わせて成立させていた見世物小屋は、長与千種の劇場になってしまった。
長与千種が立ち上げた団体であるマーベラスの興行を観戦するのはそういった、長与の定義した全女の残滓がきらめいてとてもエキサイティングな体験なのだけれど、長与慣れしていないわたしにはかなりずっしり尻に来る。大仁田の興行に出てミックスドタッグ電流爆破しているのを見ると大仁田の自我と化学反応を起こして(大仁田もまたすごいとしか言いようがないほどすごい)(詳しい人から「猪木と同質の何か」と説明されて合点がいった)お酒を飲んでもいないのに謎の酩酊が引き起こされる。いっかい見てみるのがオススメだよ。

お金が儲かるのなら松永兄弟はまあいいだろうと長与千種と交渉し、そして興行的に不要とされる小人プロレスを切った、と考えるのはフロントの思惑を想像するプロレス脳でしかないのだけれど、おそらくそこそこ正しい。いくつかの記事を読むと、同時に「怪我や死亡のリスク」についても言及されているものが見つかり、確かに、<ある種の疾患を持つ人をリングに上げて事故が起こった時の責任>に対する世間の反応を考えた時に、フロントが及び腰になるのも納得がいく。プロレスに怪我やアクシデントはつきものとはいえ、そういった事態が起こらないようにフロントが全力で対策をするのは当然であろうと思うし、プロレスが興行である以上、そのリスクは負えません、カードは組めません、と判断するのも理解できる。しかし。

たとえば「小人プロレスは身体的に生命の危険がほかの選手より大きい」という言説を論理的だとして許容した場合はどうなるか。「女性は子供を産むための体の作りをしているのでプロレスをやるには身体的に生命の危険が大きい」という言説を許容することもあり得るだろう。そして、「アジア人はその他の人種と比べて骨格的に弱い体つきをしているので身体的に生命の危険が大きい」という言説もありうる。どのプロレスの分野でも怪我人は常に出ているのだから、「身体的に生命の危険が大きい」という主張を裏付ける証拠には事欠かない。ここには論理的な主張などない。境界線をどこに書くかの恣意的な判断があるだけだ。差別とはそういうことなのだろう。差別をしない人間などいない。ただ、自分がどういう境界線に蓋然性を感じているかに気づく瞬間を増やさなければいけないのは、確かなことだ。
重大な怪我をしたり亡くなってしまう選手は今でもいるのに、そいつらは健常者だからリングに上がれるのか、と問われれば、何も言えない。それは差別だ。だからいわゆる障害者プロレスと言われる幾つかの団体の興行は時間が許す限り行きたいと思っている。応援したいと思っている。プロレスファンの実現できるバリアフリーとは、そういうことだと思うから。

単なるいちプロレスファンでしかないわたしはプロレスの試合を見に行って応援し、いい試合には歓声をあげ、つまらない試合には嘆息する。でも、わたしは常に、どんな時でも、プロレスの側に立つつもりだ。たとえばプロレスが弱きものを抑圧するように振る舞うならば(っていうか振る舞ってんだけど)(……)、なんか悲しくなってきたけど、でも、わたしは時にプロレスのなかの不誠実を攻撃するかもしれないけど、常にプロレスの味方でありたい。プロレスがリングの上に立つ勇気ある人のものであり続けることを心から願う。