おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

スターダムを見た話

プロレスを見に行く時にいつもいるのはわたしの体だ。一人で行くこともあるし、誰かと二人で行くこともあるし、たくさんの人と一緒に行くこともある。たくさんの人の顔ぶれは常にいろいろだけれども、そこに常にわたしがいることは変わらない。当たり前のことだと言われるかもしれない。でも、月に5回も6回もプロレス興行に行くと、そのことは不思議なことに思えてくるのだ。いくつかの、わたしのいる興行と、とてもたくさんの、わたしのいない興行がある。そして前者には、プロレス興行で初めて顔を合わせる知り合いの知り合いや、わりあいよく顔を合わせる知り合いよりも親しい友だちがいる。彼らはわたしのいない興行にも居合わせる。後楽園の客席を、わたしたちはポイントしてグラデーションを作っている。わたし、わたし以外、わたしの知っている人、悲しい人、怒っている人、お腹が空いている人、酔っ払い……。
どんな人といっしょに行っても、わたしとプロレスの関係は個別的なものだ。初めてプロレスを観る人に説明をしたり、プロレスのことをよく知っている人に話を聞いてみたりしながら試合を見たり、見なかったり、する。

目をつむって試合は見ない時間。それもわたしにはプロレスだ。観客が無言で物がこすれる音ばかりが聞こえ、合間にリングを叩く音。今はグラウンドの攻防だ。歓声が客席の方へ移動した。場外乱闘、南側に登ってきた。天井に驚きの声が滞留する。ああ、入口階段のひさしから跳ぼうとしているのだ。人のグラデーションと感情のグラデーションが混ざり合い、蜂の群れのように濃淡をつけながら後楽園の客席と天井のあいだをうねって体をよじらせる。見分けがつかない。それはもしかしたら昨日のボクシングの試合の歓声だったのかもしれない。目を開く。果たしてそこには立ち上がり情報を見上げる観客の背中が見える。選手など切れ端すらも見えない人の壁。しかし、私にはわかる。波及してくる叫び声にも似た、いま跳んだのだ。その瞬間、ほかの観客の存在は消えて、わたしは弧を描く彼女の足先の軌道にたどり着く。わたしがあげた声とわたしの認識は乖離して、わたしの声は明日まで、もしかしたら明後日まで、これから先もずっとこの空間に残り続けるだろう。

「これからもよろしくね」と知り合いの知り合いの人は言った。いい出会いだな、とは思うけど、言われたことは嬉しいけれど、その言葉に期待はしない。なんの意味も色もつけずに通り過ぎていくように気をつける。むかしはこの言葉に期待した。わかかったのだ。でも、プロレスの試合を出会いの場なんかにしてはいけない。
わたしは一人だと確認しに行く。残るのはその日の試合内容だけ。それ以上のものは、夾雑物だ。