おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

【哭声】ハッピーイースターフロム國村隼

いいタイミングでの公開だなと思う。もうすぐイースターだ。復活祭。イエス・キリストが蘇った日だ。この映画もそういう話だ。
えらく宗教的な映画である。類似品としては『エクソシスト』最近だと『死霊館』。悪魔がいるし神もいる。でもそれらの作品よりもさらにズブっとキリスト的なものに足を踏み入れている。宗教的な映画というよりは、信仰的な映画なのかもしれない。『死霊館』で、「3回ラップ音がしたら三位一体を侮辱してるので悪霊がいる』みたいな話をして実際にそうだったけど、いやいやもしかしたら三位一体サイコー!っていうメッセージなのでは?みたいな話を掘り下げた映画です。

聖書を字義通り解釈すれば、いま人間が生きているこの時代はおまけというか執行猶予というか、本来ならば終わっていないといけないので終わりへの準備期間みたいなものだ。なぜならイエスが死から蘇ったことですでに約束は果たされ、この世界は神の国になるはずだったのだから。だから昔の本気のカトリック司祭はたかーい場所に一人で住んで黙々と過ごす。っていうか今でもいる。イエスがこの世の終わりを、約束がいよいよ果たされたことを告げにいつ来るかわからないからだ。その時にむちゃくちゃセックスしてたりしたらもう最悪だ。だから彼らは岩で作られた庵のなか一人でいる。

この映画は、「言うても今、イエスが来たとして、気付く?」という話であるように思う。冒頭で紹介される聖書の一文は、復活したイエスを見て、イエスの話を聞きイエスの実在をその目で見て敬愛していたはずの弟子でさえもイエスの復活を信じられず、奇跡を疑ってしまった、という話である。いわんや、イエスがいなくなって2000年も経った現代の人間は、である。土着的な信仰も科学という新たな宗教もあふれて世界を満たすなか、イエスの奇跡を私たちはどう捉える?ましてやイエスは、もっとも弱いもの、もっとも怪しいものの形を取っているかもしれないのに。

たとえば怪しい異邦人が、死んでしまったものへ復活の奇跡を行ったとして、そして本当にその人が蘇ったとして、フラフラ歩いてたら私たちは何と言うか。
たぶん「ゾンビだ!」だよね。
だからそもそも私たちはイエスの奇跡にさえ気づけない、恐れて怯えて排除する。聖書の中でも生じたその有り様を、『哭声』は徹底的に現代的にリアリティを持って描きなおしている。

復活したイエスをトマスは疑った。サービス精神旺盛なイエスはちょっと脇腹の傷に指入れてみ?と言ってトマスは「あっあの時の槍の傷やん!」ってなって信じる。イエスがフランクな奴じゃなければ面倒なことになっていたはずだ。そして私たちは、西暦2017年の私たちはそもそもイエスを疑うことすらできない。どれがイエスかわからない。國村隼の姿をしていたらそれはイエスじゃないときっと断言してしまう。

世界の終わりはイエスを信じる者にとっては救いだ。でも。
世界の終わりが祝福のうちにもたらされたとしても、今の私たちにはそれが祝福に見えないかもしれない。それはとても恐ろしく破滅にしか見えず、信仰の有無にかかわらず私たちは恐怖するしかないかもしれない。
あの村から世界の終わりが始まっていったんじゃないかというのは私の妄想だけれども。
神と私たちは断絶されていて、私たちはとても、忘れっぽいのだ。

そしてそのような聖書の密度と疑いを現代に描きつける圧倒的な美術と照明とあるいは余韻に、なんなんや韓国映画……とため息を漏らさずにはおられないのである。儀式のシーンには、映画を映画館で見る快楽がばしばし背骨を殴ってきたし、ってか、一千万ウォンであんだけのことしてくれるんだから祈祷師に頼むのはコスパいい気がするよ。あれだけの動物の死体を集めて人を呼んで、大変だよ!