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おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

【沈黙】プラクティカルクルーエルピープル日本人

日本人はほかの宗教に寛容なんです、なんて言ったって多神教の国ですからね!と異常な頻度で聞かされ続けた近代。もちろんそんなことはないし、とびっきりに残虐で暴力的なおこないの数々など歴史修正主義者たちが「なかった」と言いたがるいくつもの事象について、少なくとも「日本人は穏やかなのでそんなことしない」的な性分から説明する反証に対しては「んなわけねえじゃん。他の民族より特別に残虐ってことはないかもしれないけど、少なくとも他の民族と同じくらい残虐だよ」と真顔で言い返したくなること請け合い。

アツアツの雲仙ホットスプリングをちょっとずつかけて熱がる人を見て楽しむ(日本人は今でもこの芸当が好きだよ)。簀巻きにして海に放り込んでツンツンする。逆さ吊りにして首にちょっと切り傷をつけて頭に血が上らないようにする。
その行為の全てを「残酷なんじゃない。実践的なんだ」と言ってのける日本人。理由は、「だって政治に邪魔だし」。実践的。まあちょっと西洋近代の匂いが感じられる台詞ではあるが、残虐さの奥の意味をよく伝える言葉だなと思う。この説明で開き直る人は現代の現実にもいっぱいいる。あと、役人が隠れキリシタンに対して「マリアを淫売と呼べ」っていうシーンがあるけどその辺も西洋近代の匂いがしたぞ。たまに出てくるスコセッシ本人の世界観。

一般的な日本人の態度として、相手の話を聞かないで自分の変化を拒むことを寛容さだと思い込みたがっている、というのもあって、それもよくフィルムに刻みつけられていて、とっても気持ちが良い。

一方で、宣教師たちの罪も余すところなく書き込まれているあたりが、スコセッシの誠実さである。神の愛と、神が存在するという真理を日本に伝えるんじゃ!と大張り切りの宣教師たちは自分たちの圧倒的正しさを信じて疑わない。「だって俺たちが来るまではあいつら獣だったし。神の教えを受け入れてやっと人間になったし」と悪びれずに言ってのけるが、もちろんそんなことはない。彼らは確かに宣教師の与えた神の愛についての教えのおかげで救われたかもしれないが、それは彼らがもともと人間だったからだ。神の存在を措定することで突然近代的自我が現れたりはしない。つまり、クリスチャンになっていない状態の東の果ての国の原住民である日本人は、宣教師たちにとっては人間未満の存在なのだ。
「日本は沼だ。キリスト教は根付かない」その言葉はある種、正しい。21世紀の今だからこそ、正しいと言えるくらい正しい。十字架や聖母像など形あるものばかりを求める日本人キリシタンにロドリゴは危惧を覚えるが、その結果は今の日本のご様子を見れば一発で理解できる。

宣教師たちの地獄のごとき苦しみは明確に不当なものであり井上を筆頭とした日本の権力者のやり口には何らの正当性もないが、同時にその残虐な行為が宣教師たちも気づかずに振るっていた植民地主義的な傲慢を免罪したりもしない。そしてその傲慢は、報われぬ宣教の末の棄教、あるいは死という形でロドリゴたちを苛む。

映画の構成上仕方がないことかもしれないけど、かなりの数の日本人がむちゃくちゃ英語が(下手なりに)うまい。役人だろうが農民だろうが関係なくみんな日常会話をこなす。現代日本人より明らかにこなす。勤勉さは人間らしさを保証する基準ではないが、とはいえこんな人たちをよくも獣と呼べたものだな。一方、宣教師たちは頑なに英語以外を喋ろうとしないし、そのことは劇中でも指摘されるけど、その不均衡はますます宣教師たちの「獣の言葉は喋らんぞい」という気持ちを明らかにする。「神を語る言葉は英語だぞい」って、それはそれで歴史的にスゲー変なんだけども。礼拝ではラテン語使ってるし。

あと、いろんなところで言われているかもしれないが、すうう、と息を吸い込んで、ぐぐぐ、と体をまるで背骨が折りたたまれていくように縮ませるイッセー尾形の禍々しさよ。まるで妖怪のごとし。彼の周りにはいっつも蠅がまとわりついていて、彼は端的に異教徒=サタンの遣いであるのもわかりやすい。
コントのように出たり消えたりを繰り返す窪塚洋介演じるキチジローのキャラクターは非常に明快な役割を与えられているし、彼の存在は『沈黙』をなおさら聖書的なものにしている。もっとも弱いものを神は愛する。ロドリゴが迷いを得たとき、キチジローは必ず現れて惨めな姿を晒す。映画的に言えばキチジローは〝ロドリゴの弱い部分・影〟なんだろうけど、信仰的な意味合いで言うのなら、彼は〝ロドリゴの代わりに罪を引き受けるもの〟だ。それゆえに彼はこの映画の中でもっとも神に愛されている。苦しみの中にあるロドリゴはそのことに気づけないが、全てを奪われた後にはキチジローの中にこそやっと救いを見ることができる。原作では葛藤の末の微かな救いの兆しにとどまったロドリゴの人生は、映画でははっきりとした救いがもたらされるべきものとして幕を閉じる。改変、と呼ぶにはあまりにも切実なその筆致は、スコセッシの静かで激しい信仰告白とも捉えることもでき、興行的にはどうあれとても祝福された映画化であったことは間違いない。