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おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

ファイナルファンタジー15が面白かったという話

10年の開発期間を経てグダグダな感じで世界同時発売された最新作。ラッピング電車の広告をとってたのに発売延期で電車だけが走る光景には諸行無常を感じざるをえなかったが、仕事というやつは基本的には大変ってことはさすがにこの年だとわかるので、笑っていられる話ではない。
料理のCGがリヴァイアサンのCGと同じサイズでそんなものは無駄な労力だとか言われて一瞬、話題になったが、そんなん余計なお世話っていうか、4Kの巨大な画面で見る場合は聖書に登場してヨブ記では神もめっちゃ自慢したリヴァイアサンとかいう架空の生き物よりも普段見慣れている料理の画がショボいほうがよほどマジでさげぽよなのでまあ、せめてプレイしてから文句言ったげてよって感じはした。食事はこのゲームの中でかなり重要な枠割を果たしているし。そう、食事――というか、人間の生理、いちにちいちにち食べて戦って寝て、というひとつのサイクルを、このゲームは再現しようとしている。
ゲームというのはグラフィックがリアルになればなるほど、「リアリティの再現」という壁というか課題に直面して、「このキャラクター人間のふりしてるけど24時間プレイヤーが動かしていてうんこしないよな、そういや。こんな怪我して一晩寝て治るのも変だし、服汚れてないし」みたいな違和感が生まれてしまう。映画と違って、プレイヤー=キャラクターという前提が強固に存在している以上仕方のない矛盾だ。オープンワールドという形式はもっともその側面が色濃く出やすく、そしてFF15は(前半は)オープンワールドなのだ。そしてリアリティの再現に「宿泊(キャンプ)」を中心に据え、そのもっとも重要な要素が食事、ということだ。食事をするとそのメニューに応じた攻撃力やHPに24時間のボーナスが付き、例えば強い敵と戦う前の準備としては絶対にしたほうがいい。そしてオープンワールドとしてのFF15は面白い。現実ならば絶対友達にならないようなノリの男3人と各所でされる頼まれごとを解決していくのは本当の意味でゲームならではの体験だ。グラディオラスだけは最後の最後までムカついたが(体育会系の自認がある人は己をサバサバさっぱりしていて気持ちのいい人物だと思っているが、実は皮肉や嫌味や悪口が普通の人と同じように大好きなのだ)、集団を作るというのはそういうことだ。受け入れよう。
しかし問題は、そういうオープンワールドの楽しみを、FFらしさとも言えるシナリオ進行の作業がいちいちぶった切り、ゲームに没入しようとする気分を阻害することだ。おまけに9章以降はひたすら指定されたルートを突き進まされることになりオープンワールドではなくなる。食事が大事なゲームだからか、米のおかずにパンを食べさせられるような気分になる。どっちかにしてくれ。

 

正直、FF15は面白いかつまらないかで言ったらたぶんつまらない。すべての要素がバラバラで、10年のあいだに出てきたあれもやりたいこれもやりたいをくっちゃくちゃにつなぎ合わせてそのいびつなつなぎ合わせの隙間をプレイヤーが埋めなくてはいけない。仕事だ。フルプライスで買ったゲームなのに仕事をさせられている。仕事はつらい。だから作品全体で見たときの完成度は低い方だと言っていい。
でも、とここでまた留保しなければいけないのだが――、かと言ってこれを嫌いなゲームかと聞かれると、かなり好きなゲームだと主張したくなる。そしてその確信は、不思議なことにゲームがオープンワールドでなくなった9章以降に強まっていくのだ。特に10章以降に訪れる列車の旅の、そのエモーショナルさにおいて。

大きなものをなくしたあと、窓から差し込む太陽の光のこわい眩しさ。冷え切った空気をまとって走る列車のなか、曇った窓ガラス越しに見える、寂漠とした期待だけをはらむ景色……。
びっくりした。このゲームを作っている人は悲しい気持ちになったことがたくさんあるんだろうとすら思った。そういう、私がまさしく体験したことのある、旅のすがたがそこにあった。オープンワールドの頃の陽性な車の旅とはまた違った、大勢でいても孤独な陰性の列車の旅、だ。きっと、もしかして、と妄想をする。私は〝彼ら〟の10年間を追体験しているのではないか? 初めは楽しく、あれもしようこれもしようと顔を突き合わせながら話し合い、青空の下を駆け抜け、小さなタスクを場当たり的に解決し、――そしていつの間にか、何か大切なものを失い、何よりも尊いと思っていた仲間も櫛の歯が欠けていくように、いなくなっていく……。そして気づけば、月日は――。


私は、このゲームを旅と定義し、それを貫徹させたディレクションにとても感動した。ここまでカオスになったいくつもの要素をまとめ上げるのに、それ以外の選択肢はなかっただろうとすら思えた。ラストダンジョンとして訪れる荒廃した新宿の姿。本来であれば、私はこの場所を、荒廃する前のこの場所を、自由に行き来し、飛び回れたはずだ。でも、もうそこにはがれきが降り積もり、私は決められた場所をただ、進むしかない。長かった物語を終わらせるために。
物語が終わりに近づくにつれ、ゲームとしての体裁の結び目はどんどん緩くなり、いつほどけてバラバラになってもおかしくない状態で、しかしこのゲームは踏みとどまりきった。そしてある時点で、このゲームが踏みとどまりきった理由が、オープンワールドであることよりも昔ながらのJRPGであることよりも、何よりもFFであろうとした、その一点にあることが了解された。DQほどわかりやすい〝らしさ〟はFFにはないのだけれど、確かに、特筆しうるFF固有の体験というのは、ある地点で世界のありようが喪失という形をとって劇的に変わる、その瞬間の衝撃なのだ。加えて言うなら、それでもまだ、私の代わりを務めるキャラクターたちはなお(パラメータという数値化された固有性において最も顕著に)不変である、という身も蓋もなさ。そういったものを含めて、このゲームを作った人たちはFFというものの定義に、最後は立つことに決めたのだろう。その表象としてもまた、旅という選択された中心軸は確固たるものだ。

 

このゲームが『ファイナルファンタジー』というジャンルに留まりきった様子からは、ほとんど意地というか、いや違うかな、『ファイナルファンタジー』を作ってるんだ俺たちは、という矜持を感じ取ることができる。
問題は、発売日を迎えたこのゲームのクリエイターの旅がまだどうやら終わっていないらしいということで、いくつもの追加データやらコンテンツが今後も用意されているが、正直私は現状で大満足しているので、グラディオラスがいなかったあいだの彼のエピソードは別にまあ……。
FF15はあの13章の出来も含めて完成されていると思うし、とにかく面白いゲームを有難うございました。