おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

【ソーセージ・パーティー】奴らが殺しにやってくるのは必然

擬人化がたいそう苦手だ。しかしむちゃくちゃ流行っている。最近はそうでもないのかな。まあいずれにせよ驚くほど苦手なので本屋やネットのそういう情報をひたすら避けている。

擬人化、特に日本の擬人化は、作品世界では人間の存在(擬人化される際のモデルとなる存在)は、ほぼオミットされているか、やたらと人間を慕っているかの2種類だ。これが何よりきついらしいということに『ソーセージ・パーティー』を見たら気付けたので良かった。なのでいつもはネタバレとかしないようにぼんやり感想書くけど今回は映画の内容をすべて書く。面白いし驚きもある映画なのでネタバレなんか見てはいけない。公開館数も少ないから如何ともしがたいけど東京だと六本木ヒルズで見られます。ちなみにここで私が言う擬人化は、必ずしも動物や物を人間の姿に描き変えることではなく、それらに意思を感じて喋らせる行為全般のことを想定している。『トイ・ストーリー』とか『ファインディング・ニモ』とかも擬人化の一種といえるし、前者はともかく後者の人間は割とロクでもないのでこの点は大変ありがたい。

『ソーセージ・パーティー』の主役はスーパーマーケットで売り物にされているパック詰めのソーセージで、独立記念日を前にして専用の陳列棚でホットドッグ用のパンのパックと並んで売られている。ソーセージは男性、パンは女性の表象を与えられていて、透明な袋の中でもぞもぞしながら主人公のフランクは意中のパンのブレンダに「早く君に挟まりてえぜ」とムラムラしているし、我慢できずに先っちょだけ触れ合ったりする。

スーパーマーケットでは売り物たちは朝の開店時に「早く買われたいな。神(客のことだ)に選ばれてスーパーの外に出られる日が待ち遠しい。外の世界は夢が叶う天国だ」の歌を歌う。賞味期限が切れてゴミ箱に捨てられるのはなんか絶望っぽいからできれば避けたいと彼らは思っているので、何としても買われていきたい。

しかし外の世界に一旦出て行ったハニーマスタードは返品されて戻ってくるとめっちゃビビってる。「外の世界は天国じゃない」とか言う。しかし不運にもすぐにもう一度、今度は別の客にお買い上げされそうになり、あそこに戻るのは嫌やとカートから投身自殺を図る。フランクが彼を助けようとした結果、カートは転がり商品はゴロゴロ落ちてスーパーの床は地獄絵図。まずここのビジュアルが良くて、まんま『プライベート・ライアン』な戦場シーンがポテチやジャムで再現される。オレオ的なビスケットサンドが自分から剥がれてしまったもうかたっぽのビスケットを地面から拾い上げてわなわなする。爆発に巻き込まれた兵士が自分の腕を拾い上げてわなわなするスピルバーグのよくやるやつみたいに。ここでこの映画の悪ふざけは頭のいい人たちがニヤニヤしながらしている悪ふざけだと気づくので「狂ってるw」とか言えなくなる。セス・ローゲンなどの奴らは大真面目にふざけているので、「狂ってるw」とか言う私たちを見てニヤニヤするに違いない。頭がいいですね。

なんとか生き延びたフランクたち――フランクとブレンダ、そしてベーグルとラバシュ(中東のチャパティみたいなピラピラしたやつ)は、自分の棚を目指して閉店後のスーパーの中を冒険することになる。フランクはハニーマスタードが今際の際に言った「火酒が外の世界の真実を知っている」という言葉が気がかりなので、お酒売り場に寄るなどして真実を知りたいが、ラバシュはベーグルと喧嘩するしブレンダは信心深いのでハニーマスタードの言ったことなんて気にすんなって思ってる。なのでフランクはこっそり火酒と接触する。

結論として、「朝の歌」と「外の世界は天国」という設定は長期保存がきく火酒などの食品たちがスーパーマーケット内の秩序を維持するために作ったでっち上げでした。ええ〜マジで。でも結果が同じなら生きている間くらい夢見たいじゃん? 死ぬのは不可避だし。人間も死ぬのは不可避だし、天国があるなら多少は死への恐怖もごまかせる。それは悪いことじゃない。神は神で死は死だ。どうしようもない。

一方で、フランクといっしょにパックに入っていた仲間たちは運良くカートに残れたので買われて外の世界に行ってしまった。彼らはその後スラッシャー映画みたいな目に遭い(アメリカの人はジャガイモの芽を取らないのか? と心配になった)、生き残って逃げ出したソーセージの一本でフランクを慕っていたバリーはヤク中の男の人とコミュニケーションをとる。現実世界ではバスソルトをキメると人の顔を食べる事件が起きてすわゾンビか? とネットがざわつくがこのアニメでは多次元への感覚が開かれてソーセージと喋れるようになる。ちなみに外の世界はスーパーの商品にとってはマジで地獄でした。コーン粒がいたと思ったらうんこの中でゾンビみたいになってたりとか。バリーはヤク中の人の家で噛んだ後のガムとか使用済みのトイレットペーパーとかと結託してある結論を導き出す。

「神は殺せる」

まさかの能動的ニーチェ。ヤク中男性は部屋に飾っていた斧が落ちてきて自滅的死を迎えたのであった。そしてスーパーマーケットに戻ってきたバリーはその事実をフランクに伝える。いい言葉だ。「神は殺せる」。でも観客はびっくりする。なんだかんだでソーセージとかに感情移入して「ガンバレー」とか思ってて「彼らがどうすればハッピーエンドになれるかな」とか考えてたのに結論が「人間(観客も人間だ)を殺そう」だったらびっくりする。でもまあ当たり前だよな、殺るか殺られるかだよな。勝手にソーセージに感情移入して捕食者としての残酷さを忘れるんじゃないよって話だ。自分のことを残酷だと思いたくないのならソーセージに人格がある妄想なんてするもんじゃない。

あとはまあスーパーの食品たちが知恵と勇気で戦って勝つ。勝利のあとは乱交パーティーが開かれる。スーパーの商品たちはフランクやブレンダに限らず上映中ずっとセックスのことばっかり考えているからね。でもこれって「お下品」映画だからってわけじゃなくて、例えばラバシュは天国に行けば77本のエクストラバージンオリーブオイルでピラピラを浸すことができると思っているのでフーリーだ。つまり現実だ。乱交シーンは清々しかったし興奮したが、R15指定なので高校生もこの映画は観れる。いいのかそれで。ソーセージだからか。それこそ擬人化された彼ら彼女らの実在とセックスを侮って軽く見ている証左にほかならないのではないか。

と、ここまできたらお分かり頂けると思うのだが、私が擬人化に対して嫌悪感を抱いた原因というのは、擬人化っていうのは普段私たちが意思のないものとして接しているものに自我を認めることなのに、どうしてそこに相対する人間としての私を抜きにできるのか、という部分だったんですね。電車だろうが兵器だろうが文房具だろうが概念だろうが、一個のパーソナリティを持つ相手として接するつもりなら、相手が自分のことを、人間全般のことをどう思うかまで考えることこそ、想像力であり誠実さなんじゃないのかな。自分の姿を忘れて、ただ相手を消費するだけの態度のままで「こいつは俺の嫁」なんて、ちょっとムシが良すぎる。

でも、もしアニメキャラの人権を認めよという活動が起こりうるならば、私は賛成、と言わなければいけない。それくらい私は、彼らのおかげで生きていられている。神は殺せるかもしれないが、死は死のままでソーセージたちにも私たちにも平等に未来に横たわっている。それは二次元だろうが3DCGだろうが三次元だろうが、どうしようもない。

よく「日本には八百万の神がいるから擬人化が得意だし多文化社会が実現出来る」とかクソみたいなこと言う人いるけど、多分世の中にある大多数のものは、意志を持ったら「人間死ね」って全力で殺しにかかってくると確信するよ。そうは思わない、お互いに尊敬がある、とか言う奴はどんだけ自分のこと好きなんだよ。そんなにいいやつじゃねえよお前は。くらいのことをたぶん擬人化に接した時に考えて今までイライラしていたのだ。気づかせてくれたのはセス・ローゲン、あなただ。頭のいいセス・ローゲンがスクリーン越しにニヤニヤしているのが見える。そしてスーパーマーケットではなく映画館にいるので安心仕切っている私たちに火酒は言う。

「俺たちはそもそもアニメなのでこれから俺たちを見ている人たちがいる現実に行こう」

彼らは我々を慕っていないぞ。彼らに意思があると本当に想像しているのなら、そろそろ私たちは覚悟を決めるべき時だ。