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おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

【がむしゃら】無邪気な二次加害

「プロレスってやらせなんでしょ?」と言われても即座に否定できるプロレスファンでも、プロレスの観客が孕む加害性はおそらく否定できないと思う。どれほどもっともらしく足から力が入らなくなるか、どれほど首がやばい角度で刺さるか、そういう部分で選手のテクニックや試合の凄まじさを語る態度は、プロレスファンの間ではとても一般的なものだからだ。それはつまり、どれほど致命的な暴力の結果をレスラーが引き受けている(ように見えるか)を評価する態度で、だけれども「それでもプロレスは素晴らしい」と言えるのは、レスラーの命を軽んじているわけではなくて、レスラーがどこまでも強く、人間以上のあるいは神にも近い存在であるから大丈夫なのだという信仰を(少なくとも私は)抱いているからだ。

『がむしゃら』は女優で女子レスラーの安川惡斗が主役のドキュメンタリー映画だ。
私はプロレスラーの惡斗しか知らないが、どちらかといえば嫌いな選手の一人だった。プロレスはそれほどうまくなく、マイクも演技過剰で痛々しい。私がプロレスに求めるものは前述したように<圧倒的な何か>を見せてもらうことだったので、彼女の自信のない様子には(レスラーというだけで人間以上のものなのに、なぜそんなに観客にお願い事をするように喋るのだろう)と思ってしまう。
実際に映画の中で流れていた試合映像からも、惡斗と戦う対戦相手の大変さばかりが伝わってきた。両国でどうにかタイトルマッチらしい試合を成立させようとしたダーク・エンジェル(現在はWWE下部組織NXTのトレーナー)は、場外に飛んだ際に惡斗に受け止められ損ねて、背中からもろに落下しているように見える。
それでも、惡斗はプロレスラーだった。惡斗の引退試合は、間違いなく良い興行だった。強さやマイクの巧拙だけでは説明できない奇跡みたいなものを、リングの上では起こすことができるのだ。好きも嫌いも超えて、ああ、プロレス見ててよかったな、と思える瞬間が確かにあることを、安川惡斗は教えてくれた。

一方でこの映画、安川惡斗の固有性を描き出そうと聞き出されていく言葉を刻んだ映像は、しかしどこまでもステレオタイプだ。
侍を目指して剣道をやっていた幼少期、なぜか「汚い」と罵られいじめられた小・中学性時代、中学二年生の際の性犯罪被害、洗剤を飲んでの自殺未遂、演劇との出会いにプロレスとの出会い。レスラーになってからの怪我や病気の数々。
出来事の数々に込められた惡斗の思いは、撮影され、編集された瞬間にどこかで聞いたような一般名詞へと変貌していく。いじめ、家庭の不和、自殺未遂、美人だけど可哀想な、おんなのこ……。プロレスのリングの上で惡斗が叶えようとしたもの、そして引退試合で実現したものに比べると、監督のカメラを通して映し出される映像も言葉も、あまりに薄っぺらくて、寂しさすら漂う。監督にとっては惡斗はあくまでも、尊重される人格を持った一個人ではなく、自らが望む欲望を喚起させる一個の材料なのだろう。

惡斗は自殺未遂の話をした後、「私、普通の女の子ですよね?」と監督に聞き、「全然普通じゃない」と監督は否定する。監督は惡斗の言葉に決して寄り添わない。普通じゃない女の子こそ、監督は望んでいるから。

安川自身は決して自分から「レイプ」という言葉を発音しない。そのことを語るときには「あんなことがあったから」「そういうことされて」と、指示代名詞を使用する。しかし監督は平然とあるいは嬉々として、「レイプされたんだよね!」と質問し、その詳細をなんとかして聞きだそうとカメラを回す。そこの部分で割かれる尺も多い。とても、とても興味があるのだ。性犯罪の被害者になった彼女に。おそらく彼女のプロレスラーとしての活躍以上に。
敢えて「レイプ」という言葉を投げかける行為に対してはおそらく、「起こってしまった出来事を、俺は受け入れてるよ、大したことじゃないよ、と伝えるために優しさからその言葉を使っているんだよ」くらいのことは言ってのけそうな気はするが、それを決めるのはあくまで被害を受けた本人である。なのにこんなあからさまな二次加害が、「良きもの」「作品」としてフィルムになっていることに、改めて戦慄する。

もう一つ、監督が惡斗を一個の人格として見ていないと確信した根拠は、上映後のトークショーでの応答だ。監督がツイッターであげていた惡斗の怪我の写真について質問に対して、「我慢ができなかったので」「プロレス界の自浄作用を期待して」「惡斗と僕の関係性があってこそ」あの写真をアップしたのだと釈明があり、しかし惡斗自身は「もう終わったことだから」と述べていて、ああそこにはやっぱり監督のエゴだけがあって、安川惡斗の意思は後からついていくのね……と、作品の評価を強く補強するものだった。

典型的な二次加害の様相を映し出し、プロレスラーには一片のリスペクトもない、そんな映画が『がむしゃら』だ。
なるほど、さんざんプロレスブームだのプ女子だのと言ってみたところで、プロレスというジャンルの扱いは未だにこんなものなのかと、そのことを知れたのは、良い勉強だった。いろいろ理屈をこねたところで、プロレスを楽しむということは、こういうふうに見えているのか……という気づきも含めて。
あと、客席には映画関係者もたくさん来ていたんだけど、上映後のトークショーでは「『STAND BY ME ドラえもん』はクソ!」「相田みつを大っ嫌い!」と周回遅れの流行り物の悪口を監督や脚本家どうしで言っていて、これが日本映画の現在地か……と映画好きとしても絶望が増した次第。飲み屋の与太話ならわかるけれども……。