おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

【美術館を手玉にとった男】文化に復讐しにきたぜ

連合赤軍の本を読んでいて、そのうちに大塚英志の『「彼女たち」の連合赤軍』に行き着いたわけだけど、彼は大江健三郎ノーベル文学賞の受賞スピーチでサブカルチャーが切り捨てられたことをひどく寂しそうに語っていて、でも80年代に生まれた私にはそもそも切り捨てられた〝サブカルチャー〟の中身が何かわからなかったから、さみしいのか、そうか、くらいしか言えない。

と思っていたところにこの映画を見たらたぶんこれがサブカルチャーだなと重大な示唆を得て、でもそれは大塚英志が寂しく思ったその先のやっぱりさみしいなりゆきになっていて、なんとも言えない切ない気持ちになりもした。

贋作師(と呼んでいいのかもわからない。彼の生業は贋作作りではない)のマーク・ランディスはダーターで自分の作った贋作――たとえ宗教画だろうがなんだろうが色鉛筆やら何やら画材は自分の使いたいものを使うし、ぶっちゃけ下絵はキンコーズ的な店で作ったカラーコピーだったりする――を寄付する。

で、美術館の人は「あっどうも。展示するかどうかはわからないけどありがたくいただいときます」的な感じで受け取る。飾る。偽物を。で、怒る。恥かかされたぜ。でもダーターで受け取ったから詐欺罪に問えるわけでもない。

肝心のマークの中身は昔見たテレビ番組や古い映画でできている。贋作作りも古い映画見ながらやる趣味で、でもこの趣味のおかげでメンタル安定。会話でもなんか含蓄あるフレーズを言っても映画の台詞の引用だったりする。古い芸術への強いモチベーションとかそういうのは特にない。その作品が古いからってありがたがらないし権威について何か思うところがあるようにも見えない。映画見るの楽しいよって感じだ。

つまりこれが今私たちが知っているサブカルチャーと、そしてサブじゃないカルチャーの関係なのだろう。カルチャーの側は我こそがカルチャーでございとほくほくしてるけど、今やその境界線が、サブカルチャーの側には〝見えていない〟のだ。もちろん、本物があるから贋作が成立するからっていう論じ方もあるだろうけど、じゃあいつかその営みは本物がなくなって成立しなくなるよと言われても、ああそうですか、くらいのものなのだろう。「あなたはオリジナルを作るべき」なんて無責任に言う美術館サイドの人たちの空っぽさは、マークのやっていることの不当性をどこまでも薄めてしまう。

というわけで、大塚英志が持ってた屈託さえ今や過去のもので、多分そういう未来を望んでいたわけじゃないのかもしれないけど、戦後のあれこれについての悩みについては一歩前進が見られたのでとってもありがたくはあった次第。