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おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

【リトルプリンス 星の王子さまと私】悪い奴がいないと世界を理解できない

だ、だめだった……。原作に思い入れがあるせいか後半のオリジナル展開がものすごく苦痛で、ふだんなら怒るところだけど思い入れが強すぎて落ち込むほどのやつ……。

おはなしはメインとなる少女の成長譚のCGパートと、少女が出会う老飛行士の語る人形劇パート(こっちで原作『星の王子さま』のストーリーが描かれる)に分かれる。CGパートはミヒャエル・エンデのモモ的世界で、語りたいモチーフを戯画化された現実世界に寓意として出現させるやり方。主人公の少女が入学予定の名門校の周囲を囲むように直線と直角だけで区分けされた灰色の住宅街、みたいなやつ。というか、この映画を観てはじめて”エンデの方法論のソリッドさとそこから生まれるすごさ”みたいなものに気づけたよ。でも、そのソリッドさは砂漠とか上空とか人間世界から離れた場所で世界と自分を見つめ直すサン=テグジュペリの語りのスタイルとは明らかに乖離しているのだよね。

大人とは様式に主体性を預ける空虚そのものである(王子様は地球までの旅の途中でいろんな星に降りて、”王様ぶりたいけど無力で孤独で家臣が欲しい人””勝手に星を数えて勝手に貯金して勝手に自分の財産であるとうそぶいてみるけど別に何一つ実際には所有していない人”とかに出会う)という理解はすんごい悲しいことだし、それって「世の中には悪い大人がたくさんいる」っていう話よりもずっと理不尽だ。砂漠で一人きりになってそのことに気づいても、人間の世界に戻れば嫌が応にも様式をなぞらずにはいられない。悪い大人なんていなくて、大人は寂しくて悲しいから大人なんだよ。でも映画のお話はその悲しみに耐えられず、悪い大人を用意し、その内面と目的意識を描いて、世界を切り分けることに腐心してしまう。

この意図を証明するように、”点燈夫の星”のエピソードはまるっとスキップされている。点燈夫は夜になったら街燈を灯し、朝になったら消す男だが、星の自転が早まった結果1分ごとに街燈を灯けたり消したりしなければならず、最近は寝ることができない。主体性を欠いた様式を守る行為に縛られて不幸であるという点でほかの星の住人と彼のあいだに相違はないのだけれど、でも王子が「友だちになれそう」と思えたのは彼だけだった。様式をなぞるだけの大人でも、そのおこないには意味が生まれることもあるという世界のふしぎな理不尽さはここでは隠蔽されている。

その態度は結末の持って行き方にも表れていて、死は不在であるが、不在であるから星を見上げることに意味があるのだという結論に耐えられず、王子様の”その後”という続きが与えられてしまう。王子様が星に帰れたかどうかわからない。羊がバラを食べてしまったかもしれない。そもそも王子様の星がどれかはわからない。でも、だからこそすべての星を見上げることに意味があるし、見上げ続ける意味があるんだよっていう「おとながけっしてわかりっこないだいじなこと」を、否定してしまっている。これはさすがにひどいよ!

ただ、原作を描いた人形劇パートはとんでもなく美しく、いつまでも見ていたかったよ。あと声優はびっくりするくらい豪華(バラがマリオン・コティヤールに、砂漠のヘビがベニチオ・デル・トロゲバラ!)なので、字幕版がオススメです。