おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

【アリスのままで】欺瞞なしには現状を説明できないわたしたち

ジュリアン・ムーアの演技がスゴい。というのは事前にわかっているし確かにスゴいのだけれども、そのスゴさが寄与している映画の構造というか特徴が、驚くほどにやっぱりスゴい。

お話を進めるためには事件がいる。人生は出来事の集積だけど、実は何かが起こる瞬間と何かが決まる瞬間はまったくべつのものであって、でも映画はできればそのふたつをおんなじものとして扱いたいな、という欲望を持っている。

『アリスのままで』では、決定的な出来事はあんまりフィルムに記録されていない。せいぜいが失禁くらいなもので、<アレが発覚した後の家族の反応>とか、たぶんあったんだろうけど、それはアリスの忘却とともに観客の前からも、始めから存在しなかったかのように消し去られている。でも、病気と同じように、事態は常に自動的に進行していく。

なぜ夢を諦めるの?「家族の介護のため」なぜ彼女を置いていくの?「それが彼女の願いだから」

ぜんぶ本当のことで、でもぜったいにその言葉が生まれるまでの過程にはごまかしがある。嘘にはならないギリギリのきれいな言葉を、私たちはいつも探している。

けれども、世界に流通している、わたしたちのための後付けの本当の下、皮膚いちまいくらいの距離の向こう側にある、解釈される前、名付けられる前のほんとうが、なぜだか『アリスのままで』では剥き出しのまま私たちの方に転がってくる。それはアリスの忘却が、もっぱら言葉によって表象されていることと無関係ではないだろう。

名付けられる前のほんとうを直視するのはとても苦しいことで、映画を見てまでそんな体験をしたくはないと思うし、ましてや映画は商品だし、つまりは誰も得しない。でも、そういう世界で言葉を重ねるうちに、本質を表現するための言葉こそ、どんどん陳腐になっていってしまうのだ。愛とか夢とか希望とか、あるいは死とか。

「愛についての話なの」

だから、一見、これ以上ないくらい欺瞞に満ちたその台詞が、名付けられる前のほんとうとして、観る者の喉の奥に重いかたまりとして沈んでくっついて、私たちが見て見ぬ振りをしているもののなかにあるほんとうが、死ぬのが怖いわたしたちが触れられる、世界に対する唯一の手がかりなのだと、アリスがこっそり教えてくれる。