おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

【ラ・ラ・ランド】夢だなんだと言うやつは

『セッション』が全然ダメだったので心の準備は欠かさなかった。とはいえパワハラがテーマだった『セッション』と比べてかなり見やすいし、楽しく見れました。デイミアン・チャゼルis同い年(……)なので、言いたいこともちょーわかる。チャゼルは上の世代にうんざりしている。

 

正直、この映画を見て菊地成孔が怒りまくるのもわからないでもないし、彼のレビュー

realsound.jp

の半分くらいには同意できる。特に、セブの言う「本当のジャズ」の中身のわからなさは、ジャズを生業にしている人には噴飯物の適当さだろう。それはジャズに対して無知というわけじゃなくて、映画でやりたいことのためなら潔くそういう部分を切り捨てることができるということで、でもその思い切りの良さを思い入れのなさとして本職の人が感じてしまうのは仕方のないことだ。


チャゼルにとってジャズもミュージカルも自分の主張を擬装するための手段でしかなく、だからミュージカル警察が『ラ・ラ・ランド』に文句言っていないのが私には不思議なくらいだ。ふつうミュージカル映画っていい時も悪い時も歌っちゃうぜ感情があふれちゃうぜ人生は歌だぜ、っていうものだと思うけど、この映画のミュージカルって夢に浮かされた若者たちの曖昧な状態を表現するのに最適ってだけで選ばれた表現形式って気がする。

 

ただ、菊地成孔が怒るのは結果的にはチャゼルの大勝利なのだ。
デイミアン・チャゼルはたぶんすっげージャズおじさんを憎んでいる。特に菊地成孔のような若者が若者だという理由でガーガー言う権利が自分にあると思っているおじさんを憎んでいる。
「夢だなんだというけど、夢を叶えているはずのあんたたちってぜんっぜんいい人生おくっているように見えないんだけど?」
「夢を叶えて有名になったら女にモテる、だぁ?女はもう成功のトロフィーになってくれないんだよ」
『サブカルスーパースター鬱伝』に出てたサブカルおじさんたちはほぼ例外なく女性関係で非道でありミソジニー丸出しなくせに被害者ぶっているクズばかりだったが、たぶんチャゼルはそういう人たちにすっかり幻滅しているのだ。別にそれは彼がフェミニストだからってわけでなく、恋だの愛だのセックスだのでピュアな自分のこころは満たされないと知っているからだろう。なんてったってインテリ白人男性という現在の地球で最強の属性を持っているからこそ、そういう振る舞いにもしかしたら憧れているのかもしれないけど(『セッション』を見る限り)、軽蔑だって強くする。そういう新サブカル男性の気持ちは旧いサブカルおじさんには理解不能だ。ツアーでくそ忙しい中、会いたいからという理由で家に戻ってきてえらく豪勢なディナーを手作りして好きな女性に振る舞うなんてありえないと思っている人にはわからない。

 

そしてけっきょく、チャゼルは手に入れた。自分の思い通りにジャズを語る権利を。それはたぶんセブのような「ジャズの本当の姿を守りたい」人にとっては悪夢のような光景だろう。もはや誰にも止められない。チャゼルが語り、定義する新しい「本当のジャズ」が世の中に蔓延していく様を指をくわえて見ているしかない。
恋も夢もジャズもそれがなんだって言うんだ、セーヌ川に飛び込んだやつだけが次の世界に行けるんだ。

スターダムを見た話

プロレスを見に行く時にいつもいるのはわたしの体だ。一人で行くこともあるし、誰かと二人で行くこともあるし、たくさんの人と一緒に行くこともある。たくさんの人の顔ぶれは常にいろいろだけれども、そこに常にわたしがいることは変わらない。当たり前のことだと言われるかもしれない。でも、月に5回も6回もプロレス興行に行くと、そのことは不思議なことに思えてくるのだ。いくつかの、わたしのいる興行と、とてもたくさんの、わたしのいない興行がある。そして前者には、プロレス興行で初めて顔を合わせる知り合いの知り合いや、わりあいよく顔を合わせる知り合いよりも親しい友だちがいる。彼らはわたしのいない興行にも居合わせる。後楽園の客席を、わたしたちはポイントしてグラデーションを作っている。わたし、わたし以外、わたしの知っている人、悲しい人、怒っている人、お腹が空いている人、酔っ払い……。
どんな人といっしょに行っても、わたしとプロレスの関係は個別的なものだ。初めてプロレスを観る人に説明をしたり、プロレスのことをよく知っている人に話を聞いてみたりしながら試合を見たり、見なかったり、する。

目をつむって試合は見ない時間。それもわたしにはプロレスだ。観客が無言で物がこすれる音ばかりが聞こえ、合間にリングを叩く音。今はグラウンドの攻防だ。歓声が客席の方へ移動した。場外乱闘、南側に登ってきた。天井に驚きの声が滞留する。ああ、入口階段のひさしから跳ぼうとしているのだ。人のグラデーションと感情のグラデーションが混ざり合い、蜂の群れのように濃淡をつけながら後楽園の客席と天井のあいだをうねって体をよじらせる。見分けがつかない。それはもしかしたら昨日のボクシングの試合の歓声だったのかもしれない。目を開く。果たしてそこには立ち上がり情報を見上げる観客の背中が見える。選手など切れ端すらも見えない人の壁。しかし、私にはわかる。波及してくる叫び声にも似た、いま跳んだのだ。その瞬間、ほかの観客の存在は消えて、わたしは弧を描く彼女の足先の軌道にたどり着く。わたしがあげた声とわたしの認識は乖離して、わたしの声は明日まで、もしかしたら明後日まで、これから先もずっとこの空間に残り続けるだろう。

「これからもよろしくね」と知り合いの知り合いの人は言った。いい出会いだな、とは思うけど、言われたことは嬉しいけれど、その言葉に期待はしない。なんの意味も色もつけずに通り過ぎていくように気をつける。むかしはこの言葉に期待した。わかかったのだ。でも、プロレスの試合を出会いの場なんかにしてはいけない。
わたしは一人だと確認しに行く。残るのはその日の試合内容だけ。それ以上のものは、夾雑物だ。

【哭声】ハッピーイースターフロム國村隼

いいタイミングでの公開だなと思う。もうすぐイースターだ。復活祭。イエス・キリストが蘇った日だ。この映画もそういう話だ。
えらく宗教的な映画である。類似品としては『エクソシスト』最近だと『死霊館』。悪魔がいるし神もいる。でもそれらの作品よりもさらにズブっとキリスト的なものに足を踏み入れている。宗教的な映画というよりは、信仰的な映画なのかもしれない。『死霊館』で、「3回ラップ音がしたら三位一体を侮辱してるので悪霊がいる』みたいな話をして実際にそうだったけど、いやいやもしかしたら三位一体サイコー!っていうメッセージなのでは?みたいな話を掘り下げた映画です。

聖書を字義通り解釈すれば、いま人間が生きているこの時代はおまけというか執行猶予というか、本来ならば終わっていないといけないので終わりへの準備期間みたいなものだ。なぜならイエスが死から蘇ったことですでに約束は果たされ、この世界は神の国になるはずだったのだから。だから昔の本気のカトリック司祭はたかーい場所に一人で住んで黙々と過ごす。っていうか今でもいる。イエスがこの世の終わりを、約束がいよいよ果たされたことを告げにいつ来るかわからないからだ。その時にむちゃくちゃセックスしてたりしたらもう最悪だ。だから彼らは岩で作られた庵のなか一人でいる。

この映画は、「言うても今、イエスが来たとして、気付く?」という話であるように思う。冒頭で紹介される聖書の一文は、復活したイエスを見て、イエスの話を聞きイエスの実在をその目で見て敬愛していたはずの弟子でさえもイエスの復活を信じられず、奇跡を疑ってしまった、という話である。いわんや、イエスがいなくなって2000年も経った現代の人間は、である。土着的な信仰も科学という新たな宗教もあふれて世界を満たすなか、イエスの奇跡を私たちはどう捉える?ましてやイエスは、もっとも弱いもの、もっとも怪しいものの形を取っているかもしれないのに。

たとえば怪しい異邦人が、死んでしまったものへ復活の奇跡を行ったとして、そして本当にその人が蘇ったとして、フラフラ歩いてたら私たちは何と言うか。
たぶん「ゾンビだ!」だよね。
だからそもそも私たちはイエスの奇跡にさえ気づけない、恐れて怯えて排除する。聖書の中でも生じたその有り様を、『哭声』は徹底的に現代的にリアリティを持って描きなおしている。

復活したイエスをトマスは疑った。サービス精神旺盛なイエスはちょっと脇腹の傷に指入れてみ?と言ってトマスは「あっあの時の槍の傷やん!」ってなって信じる。イエスがフランクな奴じゃなければ面倒なことになっていたはずだ。そして私たちは、西暦2017年の私たちはそもそもイエスを疑うことすらできない。どれがイエスかわからない。國村隼の姿をしていたらそれはイエスじゃないときっと断言してしまう。

世界の終わりはイエスを信じる者にとっては救いだ。でも。
世界の終わりが祝福のうちにもたらされたとしても、今の私たちにはそれが祝福に見えないかもしれない。それはとても恐ろしく破滅にしか見えず、信仰の有無にかかわらず私たちは恐怖するしかないかもしれない。
あの村から世界の終わりが始まっていったんじゃないかというのは私の妄想だけれども。
神と私たちは断絶されていて、私たちはとても、忘れっぽいのだ。

そしてそのような聖書の密度と疑いを現代に描きつける圧倒的な美術と照明とあるいは余韻に、なんなんや韓国映画……とため息を漏らさずにはおられないのである。儀式のシーンには、映画を映画館で見る快楽がばしばし背骨を殴ってきたし、ってか、一千万ウォンであんだけのことしてくれるんだから祈祷師に頼むのはコスパいい気がするよ。あれだけの動物の死体を集めて人を呼んで、大変だよ!

【マグニフィセント・セブン】多様性がもたらす筋肉

筋トレしてると自分がモンゴロイドの女性だとつくづく思い知らされる瞬間がある。何度負荷をかけても細いままの腕。差別を区別とのたまう下劣な人々の顔が頭をよぎる。

で、この映画のイ・ビョンホンだ。彼が教えてくれたことは、私はあまりにも偏った筋肉の見方をしていたということだ。デンゼル・ワシントンクリス・プラットがぶん回す筋肉は見慣れたいつもの映画の中の筋肉で素通りしてしまいそうになるのだが、その中でイ・ビョンホンの筋肉は明らかに異質なしなやかさを持って7人の人種も出自も違う人々がいる説得力を語っている。銃を撃つにしてもナイフを投げるにしても柔らかなそのストロークはアクションの部分に奥行きを与えている。私は筋肉のことを何一つ知らなかったとすら言える。多様性がもたらす強さとはこういうことだ。

個性的なキャラを前半で紹介して後半で畳み掛けてアクションというのは定型と呼ぶことすら躊躇われるひとつのルールとなっているけど、それが五十年以上も続く強度を持っているのはなんだか知らんがすごいことだなあとまずはしみじみ感心してしまったのである。

とはいえリメイク元の二つの作品とは明確に違ったメッセージをフークア監督は持っていて、当時であったら見るものが居心地悪くなるような結論すなわち「勝ったのは農民だったのだ」というのは驚くほど陳腐になっている現代であるから(このテーマを今現在でも真顔で語れると思っている奴はどうかしている)、倒すべき敵すなわち資本主義的なものを武器として振るうことに躊躇がない資本家には多様な人々の寄せ集めによってこそ立ち向えるものであるというのは本当に今こそ響く話。

【ドクター・ストレンジ】あんまりですよ師匠

傲岸不遜な医者が西洋医学に絶望して東洋に赴きLSD的なぶっ飛びトリップ体験をして目覚める話っていうとニューエイジかよって話なんだけど、肝心のLSD体験が完全にサイケ祭りだったので多分に自覚的。そっちの道は危険やぞ。

日本のフィクションにおける〝魔術〟って魔術書とか魔女の帽子とか西洋的なものを想起することが多いけど、ニューヨークの天才外科医にとっての魔術とはすなわち東洋の神秘になるのは面白い話だよね。外科手術と錬金術とか魔女の釜とかは多分地続きなんだろなあ。今時こんなオリエンタリズム丸出しなのも問題といえば問題だと思うが。

とはいえバトルではなくバーゲンによってある種の解決を図るのは非常に今時っぽいし、間を埋めるアクションの映像表現(建物ぐるぐるとか時間停止とか)にこそやりたいことが込められていて、そこにこそ今までドクター・ストレンジが見てこなかった異世界の自由さや果てしなさを見出すことができる。ミスターじゃないしマスターでもないドクターなんや!ってこだわるのは、「僕、マスターなんす……」というマスターキートンの含羞を思い出す。

自分で決めて弟子たちに周知したルールをこっそり逸脱して、それに納得できない弟子に「あいつは魂が硬い」って言うのはちょっと酷じゃないかなあと思った。私も多分、魂が硬いんだと思うけどさ。そういう、「本当に分かってる人たちで真理を決めて恣意的に運用する」っていう態度こそ、現代のカオスの根源じゃないかなとも感じるよ。メリル・ストリープMMAを「芸術じゃない」と言ったときに刺さったトゲが、また胸の中でうずきもした。

後楽園ホールにて

後楽園ホールはずいぶんあかるい

真ん中を決めるレスラーの背中の水面は星空をうつしてやたら眩しい

きれいな空気を吸うのは体に悪いと知っている人たちしかいないから

首は肩まで半分以上埋まって鍛えた肉体に溺れている

ずいぶんあかるい後楽園ホールはきいろい照明がかかっている

きいろい照明の無遠慮な放物線に串刺しにされて足元には わたし がうずくまり

そこここには旅立ちそこねた人たちがおおきな声を出してきれいな空気をいやがっている

オレンジ色の椅子の足元にはウォッカが混じったレモンハイ

こぼれてびたびたの新聞紙はきのう旅立った人の負けおしみ

 

さあまずはロックアップだ。

人間の致命的な部分だけを痛めつけて

いとも簡単に死ぬ人間のからだを確かめるように

それは首や腰や頭

撲ったり打ち付けたり突き刺したり抱きしめたりして

パイルドライバーバックブリーカージャーマンスープレックス

名付けられる意味のあるゆいいつのものたち

もりあがった胸が投げかける影に逃げ出している痛みたちは

誰にも見られないまま皮ふの下にもぐり込み

呼吸のかわりに人間をうごかす息づかいになる

星空は大理石の水面にゆらゆらと輝きつづけ

負けるときだけ地面にはりついて見えなくなる

 

どうしてか死なないで立っているいくつもの水面がうつすのはもちろん わたし

うずくまったまま椅子にしがみついてうつる わたし のとろけた姿を

空もない風もない緑もない苦しくないのはここだけだから

考えるすきまを全部うめたいゼノンの矢がおおきな背中をおおい隠す

明日はこないと信じたいのだけれど

アルコール度数の高い液体はとっくに揮発してい

わたしとわたしたちは次の わたし に押しやられ

きいろい照明の当たらない

こんどの痛みに姿を変えて

後楽園ホールはずっとあかるい

 

ニューダンガンロンパV3はやりたいことはわかるし共感もするけどさというネタバレ感想

なんだかんだで1からちゃんとやってるけど2の続きがアニメでしかもお話はアニメで完結って!と先週くらいに知って私はメディアミックスの犠牲者となったのだ。なので3からやっても安心、と思ったら基本、1と2やってる前提の話だった。こういうゲームのシリーズって続編がファンディスクみたいになっちゃうけど、まさしくそんな感じ。しかも最後の最後でシリーズのファンを裏切ってくるから、うーん……尖ってるといえば尖ってるけども、荒れるのも理解出来る。

まず細かいところから。いくつかある事件の謎解きの肝心の部分、つまり犯人を犯人たらしめる決定的な論理が微妙。この状況で人が死んだらそりゃあこの人が犯人だろう、という感じで推理のための推理をさせられている感じ。「それはすべて最後のどんでん返しのための伏線」と言われても「あっはい(そんなこと言われても……)」である。あとアクションゲームっぽい部分がおおよそひどい。特にドライブ。次はドライブで推理!ってなるとテンションダダ下がり。理論武装という名のリズムゲームになっていないリズムゲームもひどい。とにかくこの2点は推理ゲームをしたいプレイヤーには邪魔でしかない。

クライマックスで語られる「フィクションの存在だって死んだら悲しい」「フィクションだってリアルを変えられる」という主張は全力で肯定したいし、それを声高に伝えたい、伝えなきゃという覚悟は全力で応援する。ほんとだよそのとおりだよ。みんな生きてるし、二次元とか三次元とか関係ない。よく言ってくれた、と思う。
でも、むちゃくちゃ難しい問題設定なのに、それを伝えるための準備というか前提が脆くて「言いたいことはわかるんだけど……」という気持ちになってしまう。『キャビン』ですら5年以上前なんだけどなあっていうのもある。ちょっと今更感。10年前なら褒めて褒めて褒めちぎったと思うから私は勝手だな。

そもそも『ダンガンロンパ』シリーズは、大量のパロディとメタフィクションを詰め詰めにして現実と虚構の境界を曖昧にさせ、そのお約束の上をポップな悪趣味と残虐で走り回りぐちゃぐちゃにするという手法で、感度が高いと自分で思っているオタク層に訴求するという結構たちの悪いフィクションの扱い方をしてきたはず。なのに今更「それって悪趣味だよ? 非人道的だよ?」みたいな物言いをされたら、そりゃあ怒る人もいるよね。という話だ。
実際に今回も最後の最後まで、しょーもないのにしつこい下ネタと古今東西の漫画やゲームのパロディを延々と読ませられている。後者はたぶんわざとだろうけどやっぱだるい。若者にはもしかしたら面白いのかもしれない部分だが、年寄りにはもうさすがに恥ずかしいのだ。

あと、アニメ的な絵で構成されたビデオゲームという形式もまた最後の主張を曖昧なものにしてしまっている。このゲームで最後に論じられる構造は、

ゲームのプレイヤー
↓↑     II 
↓↑ コロシアイゲームの観客
↓↑     ↓↑
コロシアイゲームの参加者

なんだけど、対立しているコロシアイゲームの参加者(プレイヤーキャラクター)とコロシアイゲームの観客が、我々にとってはどちらもフィクションの存在なんだよね。なのに、プレイヤーキャラクターだけが突然、自分たちをフィクションだと定義し、コロシアイゲームの観客と自分を差別化し、そこから「フィクションであるわたし」の話を始めてしまっている。ここで「フィクション」という言葉選びをされるのはものすっごく変なことだ。そのせいでなくてもいい2つの壁をプレイヤーが否応なしに認識させられてしまっている。

ゲームのプレイヤー
ーーープレイヤーが認識している現実とフィクションの壁ーーー
↓↑
↓↑ コロシアイゲームの観客
↓ーー参加者が勝手に設定した現実とフィクションの壁ーーー
↓(↑)    ↓↑
コロシアイゲームの参加者

本来なら〝プレイヤー=観客〟の構造を訴えたいわけだが、設定上は〝参加者⇄観客〟の交換可能性が成り立っているので、なぜ参加者が自らを「フィクション」と自称しているのかがよくわからないのだ。キャラクターたちは「ルールに踊らされないために死ぬ」という選択肢に向かうのだけど、いや外の世界に出て生きればいいやんそのために頑張れよと思ってしまう。外の世界=我々の世界という前提がきちんと論じられればまた違ったのだろうけど。

映画で例えると、『キャビン』の語りをしようとしているのに、設定やセリフが多すぎて、『ハンガー・ゲーム』のカットニスの動機や葛藤と見分けがつかなくなっている。これはとっても致命的。

「フィクションだって生きている」、主張の中身は共感できる。しかしそれを語るナラティブの形式は、私たちの残虐さを糾弾するには、何もかもがとにかく饒舌すぎた。2時間の映画ならたぶんもっとするっと入ったのだろう。けれど今時のゲームのテキスト量は尋常じゃない。講談社ボックス系のミステリのフォロワーである(と私は勝手に思ってる)『ダンガンロンパ』シリーズならなおさらだ。

とにもかくにもパロディの物量で「ふふ、わかってる俺」みたいなの早く衰退してほしい。下ネタと同じくらい下品だし、現実もフィクションも等しく害する病だよ。