おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

【マグニフィセント・セブン】多様性がもたらす筋肉

筋トレしてると自分がモンゴロイドの女性だとつくづく思い知らされる瞬間がある。何度負荷をかけても細いままの腕。差別を区別とのたまう下劣な人々の顔が頭をよぎる。

で、この映画のイ・ビョンホンだ。彼が教えてくれたことは、私はあまりにも偏った筋肉の見方をしていたということだ。デンゼル・ワシントンクリス・プラットがぶん回す筋肉は見慣れたいつもの映画の中の筋肉で素通りしてしまいそうになるのだが、その中でイ・ビョンホンの筋肉は明らかに異質なしなやかさを持って7人の人種も出自も違う人々がいる説得力を語っている。銃を撃つにしてもナイフを投げるにしても柔らかなそのストロークはアクションの部分に奥行きを与えている。私は筋肉のことを何一つ知らなかったとすら言える。多様性がもたらす強さとはこういうことだ。

個性的なキャラを前半で紹介して後半で畳み掛けてアクションというのは定型と呼ぶことすら躊躇われるひとつのルールとなっているけど、それが五十年以上も続く強度を持っているのはなんだか知らんがすごいことだなあとまずはしみじみ感心してしまったのである。

とはいえリメイク元の二つの作品とは明確に違ったメッセージをフークア監督は持っていて、当時であったら見るものが居心地悪くなるような結論すなわち「勝ったのは農民だったのだ」というのは驚くほど陳腐になっている現代であるから(このテーマを今現在でも真顔で語れると思っている奴はどうかしている)、倒すべき敵すなわち資本主義的なものを武器として振るうことに躊躇がない資本家には多様な人々の寄せ集めによってこそ立ち向えるものであるというのは本当に今こそ響く話。

【ドクター・ストレンジ】あんまりですよ師匠

傲岸不遜な医者が西洋医学に絶望して東洋に赴きLSD的なぶっ飛びトリップ体験をして目覚める話っていうとニューエイジかよって話なんだけど、肝心のLSD体験が完全にサイケ祭りだったので多分に自覚的。そっちの道は危険やぞ。

日本のフィクションにおける〝魔術〟って魔術書とか魔女の帽子とか西洋的なものを想起することが多いけど、ニューヨークの天才外科医にとっての魔術とはすなわち東洋の神秘になるのは面白い話だよね。外科手術と錬金術とか魔女の釜とかは多分地続きなんだろなあ。今時こんなオリエンタリズム丸出しなのも問題といえば問題だと思うが。

とはいえバトルではなくバーゲンによってある種の解決を図るのは非常に今時っぽいし、間を埋めるアクションの映像表現(建物ぐるぐるとか時間停止とか)にこそやりたいことが込められていて、そこにこそ今までドクター・ストレンジが見てこなかった異世界の自由さや果てしなさを見出すことができる。ミスターじゃないしマスターでもないドクターなんや!ってこだわるのは、「僕、マスターなんす……」というマスターキートンの含羞を思い出す。

自分で決めて弟子たちに周知したルールをこっそり逸脱して、それに納得できない弟子に「あいつは魂が硬い」って言うのはちょっと酷じゃないかなあと思った。私も多分、魂が硬いんだと思うけどさ。そういう、「本当に分かってる人たちで真理を決めて恣意的に運用する」っていう態度こそ、現代のカオスの根源じゃないかなとも感じるよ。メリル・ストリープMMAを「芸術じゃない」と言ったときに刺さったトゲが、また胸の中でうずきもした。

後楽園ホールにて

後楽園ホールはずいぶんあかるい

真ん中を決めるレスラーの背中の水面は星空をうつしてやたら眩しい

きれいな空気を吸うのは体に悪いと知っている人たちしかいないから

首は肩まで半分以上埋まって鍛えた肉体に溺れている

ずいぶんあかるい後楽園ホールはきいろい照明がかかっている

きいろい照明の無遠慮な放物線に串刺しにされて足元には わたし がうずくまり

そこここには旅立ちそこねた人たちがおおきな声を出してきれいな空気をいやがっている

オレンジ色の椅子の足元にはウォッカが混じったレモンハイ

こぼれてびたびたの新聞紙はきのう旅立った人の負けおしみ

 

さあまずはロックアップだ。

人間の致命的な部分だけを痛めつけて

いとも簡単に死ぬ人間のからだを確かめるように

それは首や腰や頭

撲ったり打ち付けたり突き刺したり抱きしめたりして

パイルドライバーバックブリーカージャーマンスープレックス

名付けられる意味のあるゆいいつのものたち

もりあがった胸が投げかける影に逃げ出している痛みたちは

誰にも見られないまま皮ふの下にもぐり込み

呼吸のかわりに人間をうごかす息づかいになる

星空は大理石の水面にゆらゆらと輝きつづけ

負けるときだけ地面にはりついて見えなくなる

 

どうしてか死なないで立っているいくつもの水面がうつすのはもちろん わたし

うずくまったまま椅子にしがみついてうつる わたし のとろけた姿を

空もない風もない緑もない苦しくないのはここだけだから

考えるすきまを全部うめたいゼノンの矢がおおきな背中をおおい隠す

明日はこないと信じたいのだけれど

アルコール度数の高い液体はとっくに揮発してい

わたしとわたしたちは次の わたし に押しやられ

きいろい照明の当たらない

こんどの痛みに姿を変えて

後楽園ホールはずっとあかるい

 

ニューダンガンロンパV3はやりたいことはわかるし共感もするけどさというネタバレ感想

なんだかんだで1からちゃんとやってるけど2の続きがアニメでしかもお話はアニメで完結って!と先週くらいに知って私はメディアミックスの犠牲者となったのだ。なので3からやっても安心、と思ったら基本、1と2やってる前提の話だった。こういうゲームのシリーズって続編がファンディスクみたいになっちゃうけど、まさしくそんな感じ。しかも最後の最後でシリーズのファンを裏切ってくるから、うーん……尖ってるといえば尖ってるけども、荒れるのも理解出来る。

まず細かいところから。いくつかある事件の謎解きの肝心の部分、つまり犯人を犯人たらしめる決定的な論理が微妙。この状況で人が死んだらそりゃあこの人が犯人だろう、という感じで推理のための推理をさせられている感じ。「それはすべて最後のどんでん返しのための伏線」と言われても「あっはい(そんなこと言われても……)」である。あとアクションゲームっぽい部分がおおよそひどい。特にドライブ。次はドライブで推理!ってなるとテンションダダ下がり。理論武装という名のリズムゲームになっていないリズムゲームもひどい。とにかくこの2点は推理ゲームをしたいプレイヤーには邪魔でしかない。

クライマックスで語られる「フィクションの存在だって死んだら悲しい」「フィクションだってリアルを変えられる」という主張は全力で肯定したいし、それを声高に伝えたい、伝えなきゃという覚悟は全力で応援する。ほんとだよそのとおりだよ。みんな生きてるし、二次元とか三次元とか関係ない。よく言ってくれた、と思う。
でも、むちゃくちゃ難しい問題設定なのに、それを伝えるための準備というか前提が脆くて「言いたいことはわかるんだけど……」という気持ちになってしまう。『キャビン』ですら5年以上前なんだけどなあっていうのもある。ちょっと今更感。10年前なら褒めて褒めて褒めちぎったと思うから私は勝手だな。

そもそも『ダンガンロンパ』シリーズは、大量のパロディとメタフィクションを詰め詰めにして現実と虚構の境界を曖昧にさせ、そのお約束の上をポップな悪趣味と残虐で走り回りぐちゃぐちゃにするという手法で、感度が高いと自分で思っているオタク層に訴求するという結構たちの悪いフィクションの扱い方をしてきたはず。なのに今更「それって悪趣味だよ? 非人道的だよ?」みたいな物言いをされたら、そりゃあ怒る人もいるよね。という話だ。
実際に今回も最後の最後まで、しょーもないのにしつこい下ネタと古今東西の漫画やゲームのパロディを延々と読ませられている。後者はたぶんわざとだろうけどやっぱだるい。若者にはもしかしたら面白いのかもしれない部分だが、年寄りにはもうさすがに恥ずかしいのだ。

あと、アニメ的な絵で構成されたビデオゲームという形式もまた最後の主張を曖昧なものにしてしまっている。このゲームで最後に論じられる構造は、

ゲームのプレイヤー
↓↑     II 
↓↑ コロシアイゲームの観客
↓↑     ↓↑
コロシアイゲームの参加者

なんだけど、対立しているコロシアイゲームの参加者(プレイヤーキャラクター)とコロシアイゲームの観客が、我々にとってはどちらもフィクションの存在なんだよね。なのに、プレイヤーキャラクターだけが突然、自分たちをフィクションだと定義し、コロシアイゲームの観客と自分を差別化し、そこから「フィクションであるわたし」の話を始めてしまっている。ここで「フィクション」という言葉選びをされるのはものすっごく変なことだ。そのせいでなくてもいい2つの壁をプレイヤーが否応なしに認識させられてしまっている。

ゲームのプレイヤー
ーーープレイヤーが認識している現実とフィクションの壁ーーー
↓↑
↓↑ コロシアイゲームの観客
↓ーー参加者が勝手に設定した現実とフィクションの壁ーーー
↓(↑)    ↓↑
コロシアイゲームの参加者

本来なら〝プレイヤー=観客〟の構造を訴えたいわけだが、設定上は〝参加者⇄観客〟の交換可能性が成り立っているので、なぜ参加者が自らを「フィクション」と自称しているのかがよくわからないのだ。キャラクターたちは「ルールに踊らされないために死ぬ」という選択肢に向かうのだけど、いや外の世界に出て生きればいいやんそのために頑張れよと思ってしまう。外の世界=我々の世界という前提がきちんと論じられればまた違ったのだろうけど。

映画で例えると、『キャビン』の語りをしようとしているのに、設定やセリフが多すぎて、『ハンガー・ゲーム』のカットニスの動機や葛藤と見分けがつかなくなっている。これはとっても致命的。

「フィクションだって生きている」、主張の中身は共感できる。しかしそれを語るナラティブの形式は、私たちの残虐さを糾弾するには、何もかもがとにかく饒舌すぎた。2時間の映画ならたぶんもっとするっと入ったのだろう。けれど今時のゲームのテキスト量は尋常じゃない。講談社ボックス系のミステリのフォロワーである(と私は勝手に思ってる)『ダンガンロンパ』シリーズならなおさらだ。

とにもかくにもパロディの物量で「ふふ、わかってる俺」みたいなの早く衰退してほしい。下ネタと同じくらい下品だし、現実もフィクションも等しく害する病だよ。

バイオハザード7はVRで遊んだほうがいい名作ホラー傑作選

バイオハザード』シリーズのおかげで見られた映画っていっぱいあるよなとふと思う。ロメロの新作とかモロにそうだし、『ドーン・オブ・ザ・デッド』のオープニングという最強エロ映像が見られたのもバイオのおかげだと思っている。あの、サラ・ポーリーが車で道路を走るショットをロングで撮って世界が終わったことが一目でわかるあのシーン。
とはいえ20年もすればひとつのブームは落ち着いて、ゾンビ映画も一時期ほどの盛り上がりはない気がする。
なので『バイオハザード7』の恐怖の対象もすっかりゾンビではなくなった。代わりに『悪魔のいけにえ』だ。レザーフェイスじゃなくて、彼の父とか兄とかあのへん。でも確かにほうきでバスバス殴ってくる兄の方が怖い。

原点回帰の恐怖を売りにしてる『バイオ7』だけど、だから肝心の恐怖の演出はどっからきているかというと、複数のホラー映画の引用の集積なんだよね。主な成分は『悪魔のいけにえ』と『死霊のはらわた』、新しいものもあって、例えば『ヴィジット』とか。
今のホラー映画はゼロ年代に活躍したホラー出身の監督がどんどんYouTubeでいい新人を見つけてクソおもしろい映画を撮らせてハッピーハッピーだし、どの映画も新鮮な驚きと「こんな恐怖があったんや」的な発見がある。で、『バイオハザード』をそのあたりの映画群と比べた場合、ドラマもホラーもどっかで見たことあるやん感は否めない。まあ、それをゲームでやるってことに価値があるのはわかるけど、映画的な恐怖の再現のために攻略の部分が犠牲になっている気がする。ホラー映画の敵は正体が分かって倒し方がわかるまで無敵状態のイベントボスだけど、『バイオ7』はそのイベントが〝いつ〟なのかわからない。撃っても倒せない時と撃たないと倒せない時の違いが見分けつかなくて、しかも弾数が(特に序盤は)限られているので撃たないと倒せない時にまずゲームオーバーになる。ノーヒントの即死トラップが多いのでゲームオーバーをする前提の設計なんだろうけど、そうなると〝見つかってはいけない恐怖〟と矛盾するのだよなあ。とりあえず死ねばいいってなっちゃうし。映画的ホラーな恐怖を再現するのに腐心しすぎて、ゲームのルールに則った恐怖はどっかに行ってしまったように思える。
今のホラー映画の盛り上がりがあるのは『バイオ』フランチャイズのおかげだと割と真剣に思っているけど、別ジャンルのホラーと合流しようとしている試みは必ずしもうまくいっているとは限らない、という感想でした。

あととにかくボリューム少ない。私みたいなヘボプレイヤーでも7時間でクリアしちゃって特に頑張りたいやり込み要素もないから2週めを遊ぶ気にはならない。VRで遊べば「あ〜疲れた。満足」ってなるのかもしれないけど、普通にテレビ画面で遊ぶにはちょっとだいぶ物足りないなあ……。
フリーでたぶんアクションが主体の追加コンテンツが遊べる!ってエンディング後に告知が出たけど、……2017年春って!!

【沈黙】プラクティカルクルーエルピープル日本人

日本人はほかの宗教に寛容なんです、なんて言ったって多神教の国ですからね!と異常な頻度で聞かされ続けた近代。もちろんそんなことはないし、とびっきりに残虐で暴力的なおこないの数々など歴史修正主義者たちが「なかった」と言いたがるいくつもの事象について、少なくとも「日本人は穏やかなのでそんなことしない」的な性分から説明する反証に対しては「んなわけねえじゃん。他の民族より特別に残虐ってことはないかもしれないけど、少なくとも他の民族と同じくらい残虐だよ」と真顔で言い返したくなること請け合い。

アツアツの雲仙ホットスプリングをちょっとずつかけて熱がる人を見て楽しむ(日本人は今でもこの芸当が好きだよ)。簀巻きにして海に放り込んでツンツンする。逆さ吊りにして首にちょっと切り傷をつけて頭に血が上らないようにする。
その行為の全てを「残酷なんじゃない。実践的なんだ」と言ってのける日本人。理由は、「だって政治に邪魔だし」。実践的。まあちょっと西洋近代の匂いが感じられる台詞ではあるが、残虐さの奥の意味をよく伝える言葉だなと思う。この説明で開き直る人は現代の現実にもいっぱいいる。あと、役人が隠れキリシタンに対して「マリアを淫売と呼べ」っていうシーンがあるけどその辺も西洋近代の匂いがしたぞ。たまに出てくるスコセッシ本人の世界観。

一般的な日本人の態度として、相手の話を聞かないで自分の変化を拒むことを寛容さだと思い込みたがっている、というのもあって、それもよくフィルムに刻みつけられていて、とっても気持ちが良い。

一方で、宣教師たちの罪も余すところなく書き込まれているあたりが、スコセッシの誠実さである。神の愛と、神が存在するという真理を日本に伝えるんじゃ!と大張り切りの宣教師たちは自分たちの圧倒的正しさを信じて疑わない。「だって俺たちが来るまではあいつら獣だったし。神の教えを受け入れてやっと人間になったし」と悪びれずに言ってのけるが、もちろんそんなことはない。彼らは確かに宣教師の与えた神の愛についての教えのおかげで救われたかもしれないが、それは彼らがもともと人間だったからだ。神の存在を措定することで突然近代的自我が現れたりはしない。つまり、クリスチャンになっていない状態の東の果ての国の原住民である日本人は、宣教師たちにとっては人間未満の存在なのだ。
「日本は沼だ。キリスト教は根付かない」その言葉はある種、正しい。21世紀の今だからこそ、正しいと言えるくらい正しい。十字架や聖母像など形あるものばかりを求める日本人キリシタンにロドリゴは危惧を覚えるが、その結果は今の日本のご様子を見れば一発で理解できる。

宣教師たちの地獄のごとき苦しみは明確に不当なものであり井上を筆頭とした日本の権力者のやり口には何らの正当性もないが、同時にその残虐な行為が宣教師たちも気づかずに振るっていた植民地主義的な傲慢を免罪したりもしない。そしてその傲慢は、報われぬ宣教の末の棄教、あるいは死という形でロドリゴたちを苛む。

映画の構成上仕方がないことかもしれないけど、かなりの数の日本人がむちゃくちゃ英語が(下手なりに)うまい。役人だろうが農民だろうが関係なくみんな日常会話をこなす。現代日本人より明らかにこなす。勤勉さは人間らしさを保証する基準ではないが、とはいえこんな人たちをよくも獣と呼べたものだな。一方、宣教師たちは頑なに英語以外を喋ろうとしないし、そのことは劇中でも指摘されるけど、その不均衡はますます宣教師たちの「獣の言葉は喋らんぞい」という気持ちを明らかにする。「神を語る言葉は英語だぞい」って、それはそれで歴史的にスゲー変なんだけども。礼拝ではラテン語使ってるし。

あと、いろんなところで言われているかもしれないが、すうう、と息を吸い込んで、ぐぐぐ、と体をまるで背骨が折りたたまれていくように縮ませるイッセー尾形の禍々しさよ。まるで妖怪のごとし。彼の周りにはいっつも蠅がまとわりついていて、彼は端的に異教徒=サタンの遣いであるのもわかりやすい。
コントのように出たり消えたりを繰り返す窪塚洋介演じるキチジローのキャラクターは非常に明快な役割を与えられているし、彼の存在は『沈黙』をなおさら聖書的なものにしている。もっとも弱いものを神は愛する。ロドリゴが迷いを得たとき、キチジローは必ず現れて惨めな姿を晒す。映画的に言えばキチジローは〝ロドリゴの弱い部分・影〟なんだろうけど、信仰的な意味合いで言うのなら、彼は〝ロドリゴの代わりに罪を引き受けるもの〟だ。それゆえに彼はこの映画の中でもっとも神に愛されている。苦しみの中にあるロドリゴはそのことに気づけないが、全てを奪われた後にはキチジローの中にこそやっと救いを見ることができる。原作では葛藤の末の微かな救いの兆しにとどまったロドリゴの人生は、映画でははっきりとした救いがもたらされるべきものとして幕を閉じる。改変、と呼ぶにはあまりにも切実なその筆致は、スコセッシの静かで激しい信仰告白とも捉えることもでき、興行的にはどうあれとても祝福された映画化であったことは間違いない。

ファイナルファンタジー15が面白かったという話

10年の開発期間を経てグダグダな感じで世界同時発売された最新作。ラッピング電車の広告をとってたのに発売延期で電車だけが走る光景には諸行無常を感じざるをえなかったが、仕事というやつは基本的には大変ってことはさすがにこの年だとわかるので、笑っていられる話ではない。
料理のCGがリヴァイアサンのCGと同じサイズでそんなものは無駄な労力だとか言われて一瞬、話題になったが、そんなん余計なお世話っていうか、4Kの巨大な画面で見る場合は聖書に登場してヨブ記では神もめっちゃ自慢したリヴァイアサンとかいう架空の生き物よりも普段見慣れている料理の画がショボいほうがよほどマジでさげぽよなのでまあ、せめてプレイしてから文句言ったげてよって感じはした。食事はこのゲームの中でかなり重要な枠割を果たしているし。そう、食事――というか、人間の生理、いちにちいちにち食べて戦って寝て、というひとつのサイクルを、このゲームは再現しようとしている。
ゲームというのはグラフィックがリアルになればなるほど、「リアリティの再現」という壁というか課題に直面して、「このキャラクター人間のふりしてるけど24時間プレイヤーが動かしていてうんこしないよな、そういや。こんな怪我して一晩寝て治るのも変だし、服汚れてないし」みたいな違和感が生まれてしまう。映画と違って、プレイヤー=キャラクターという前提が強固に存在している以上仕方のない矛盾だ。オープンワールドという形式はもっともその側面が色濃く出やすく、そしてFF15は(前半は)オープンワールドなのだ。そしてリアリティの再現に「宿泊(キャンプ)」を中心に据え、そのもっとも重要な要素が食事、ということだ。食事をするとそのメニューに応じた攻撃力やHPに24時間のボーナスが付き、例えば強い敵と戦う前の準備としては絶対にしたほうがいい。そしてオープンワールドとしてのFF15は面白い。現実ならば絶対友達にならないようなノリの男3人と各所でされる頼まれごとを解決していくのは本当の意味でゲームならではの体験だ。グラディオラスだけは最後の最後までムカついたが(体育会系の自認がある人は己をサバサバさっぱりしていて気持ちのいい人物だと思っているが、実は皮肉や嫌味や悪口が普通の人と同じように大好きなのだ)、集団を作るというのはそういうことだ。受け入れよう。
しかし問題は、そういうオープンワールドの楽しみを、FFらしさとも言えるシナリオ進行の作業がいちいちぶった切り、ゲームに没入しようとする気分を阻害することだ。おまけに9章以降はひたすら指定されたルートを突き進まされることになりオープンワールドではなくなる。食事が大事なゲームだからか、米のおかずにパンを食べさせられるような気分になる。どっちかにしてくれ。

 

正直、FF15は面白いかつまらないかで言ったらたぶんつまらない。すべての要素がバラバラで、10年のあいだに出てきたあれもやりたいこれもやりたいをくっちゃくちゃにつなぎ合わせてそのいびつなつなぎ合わせの隙間をプレイヤーが埋めなくてはいけない。仕事だ。フルプライスで買ったゲームなのに仕事をさせられている。仕事はつらい。だから作品全体で見たときの完成度は低い方だと言っていい。
でも、とここでまた留保しなければいけないのだが――、かと言ってこれを嫌いなゲームかと聞かれると、かなり好きなゲームだと主張したくなる。そしてその確信は、不思議なことにゲームがオープンワールドでなくなった9章以降に強まっていくのだ。特に10章以降に訪れる列車の旅の、そのエモーショナルさにおいて。

大きなものをなくしたあと、窓から差し込む太陽の光のこわい眩しさ。冷え切った空気をまとって走る列車のなか、曇った窓ガラス越しに見える、寂漠とした期待だけをはらむ景色……。
びっくりした。このゲームを作っている人は悲しい気持ちになったことがたくさんあるんだろうとすら思った。そういう、私がまさしく体験したことのある、旅のすがたがそこにあった。オープンワールドの頃の陽性な車の旅とはまた違った、大勢でいても孤独な陰性の列車の旅、だ。きっと、もしかして、と妄想をする。私は〝彼ら〟の10年間を追体験しているのではないか? 初めは楽しく、あれもしようこれもしようと顔を突き合わせながら話し合い、青空の下を駆け抜け、小さなタスクを場当たり的に解決し、――そしていつの間にか、何か大切なものを失い、何よりも尊いと思っていた仲間も櫛の歯が欠けていくように、いなくなっていく……。そして気づけば、月日は――。


私は、このゲームを旅と定義し、それを貫徹させたディレクションにとても感動した。ここまでカオスになったいくつもの要素をまとめ上げるのに、それ以外の選択肢はなかっただろうとすら思えた。ラストダンジョンとして訪れる荒廃した新宿の姿。本来であれば、私はこの場所を、荒廃する前のこの場所を、自由に行き来し、飛び回れたはずだ。でも、もうそこにはがれきが降り積もり、私は決められた場所をただ、進むしかない。長かった物語を終わらせるために。
物語が終わりに近づくにつれ、ゲームとしての体裁の結び目はどんどん緩くなり、いつほどけてバラバラになってもおかしくない状態で、しかしこのゲームは踏みとどまりきった。そしてある時点で、このゲームが踏みとどまりきった理由が、オープンワールドであることよりも昔ながらのJRPGであることよりも、何よりもFFであろうとした、その一点にあることが了解された。DQほどわかりやすい〝らしさ〟はFFにはないのだけれど、確かに、特筆しうるFF固有の体験というのは、ある地点で世界のありようが喪失という形をとって劇的に変わる、その瞬間の衝撃なのだ。加えて言うなら、それでもまだ、私の代わりを務めるキャラクターたちはなお(パラメータという数値化された固有性において最も顕著に)不変である、という身も蓋もなさ。そういったものを含めて、このゲームを作った人たちはFFというものの定義に、最後は立つことに決めたのだろう。その表象としてもまた、旅という選択された中心軸は確固たるものだ。

 

このゲームが『ファイナルファンタジー』というジャンルに留まりきった様子からは、ほとんど意地というか、いや違うかな、『ファイナルファンタジー』を作ってるんだ俺たちは、という矜持を感じ取ることができる。
問題は、発売日を迎えたこのゲームのクリエイターの旅がまだどうやら終わっていないらしいということで、いくつもの追加データやらコンテンツが今後も用意されているが、正直私は現状で大満足しているので、グラディオラスがいなかったあいだの彼のエピソードは別にまあ……。
FF15はあの13章の出来も含めて完成されていると思うし、とにかく面白いゲームを有難うございました。