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おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

ファイナルファンタジー15が面白かったという話

10年の開発期間を経てグダグダな感じで世界同時発売された最新作。ラッピング電車の広告をとってたのに発売延期で電車だけが走る光景には諸行無常を感じざるをえなかったが、仕事というやつは基本的には大変ってことはさすがにこの年だとわかるので、笑っていられる話ではない。
料理のCGがリヴァイアサンのCGと同じサイズでそんなものは無駄な労力だとか言われて一瞬、話題になったが、そんなん余計なお世話っていうか、4Kの巨大な画面で見る場合は聖書に登場してヨブ記では神もめっちゃ自慢したリヴァイアサンとかいう架空の生き物よりも普段見慣れている料理の画がショボいほうがよほどマジでさげぽよなのでまあ、せめてプレイしてから文句言ったげてよって感じはした。食事はこのゲームの中でかなり重要な枠割を果たしているし。そう、食事――というか、人間の生理、いちにちいちにち食べて戦って寝て、というひとつのサイクルを、このゲームは再現しようとしている。
ゲームというのはグラフィックがリアルになればなるほど、「リアリティの再現」という壁というか課題に直面して、「このキャラクター人間のふりしてるけど24時間プレイヤーが動かしていてうんこしないよな、そういや。こんな怪我して一晩寝て治るのも変だし、服汚れてないし」みたいな違和感が生まれてしまう。映画と違って、プレイヤー=キャラクターという前提が強固に存在している以上仕方のない矛盾だ。オープンワールドという形式はもっともその側面が色濃く出やすく、そしてFF15は(前半は)オープンワールドなのだ。そしてリアリティの再現に「宿泊(キャンプ)」を中心に据え、そのもっとも重要な要素が食事、ということだ。食事をするとそのメニューに応じた攻撃力やHPに24時間のボーナスが付き、例えば強い敵と戦う前の準備としては絶対にしたほうがいい。そしてオープンワールドとしてのFF15は面白い。現実ならば絶対友達にならないようなノリの男3人と各所でされる頼まれごとを解決していくのは本当の意味でゲームならではの体験だ。グラディオラスだけは最後の最後までムカついたが(体育会系の自認がある人は己をサバサバさっぱりしていて気持ちのいい人物だと思っているが、実は皮肉や嫌味や悪口が普通の人と同じように大好きなのだ)、集団を作るというのはそういうことだ。受け入れよう。
しかし問題は、そういうオープンワールドの楽しみを、FFらしさとも言えるシナリオ進行の作業がいちいちぶった切り、ゲームに没入しようとする気分を阻害することだ。おまけに9章以降はひたすら指定されたルートを突き進まされることになりオープンワールドではなくなる。食事が大事なゲームだからか、米のおかずにパンを食べさせられるような気分になる。どっちかにしてくれ。

 

正直、FF15は面白いかつまらないかで言ったらたぶんつまらない。すべての要素がバラバラで、10年のあいだに出てきたあれもやりたいこれもやりたいをくっちゃくちゃにつなぎ合わせてそのいびつなつなぎ合わせの隙間をプレイヤーが埋めなくてはいけない。仕事だ。フルプライスで買ったゲームなのに仕事をさせられている。仕事はつらい。だから作品全体で見たときの完成度は低い方だと言っていい。
でも、とここでまた留保しなければいけないのだが――、かと言ってこれを嫌いなゲームかと聞かれると、かなり好きなゲームだと主張したくなる。そしてその確信は、不思議なことにゲームがオープンワールドでなくなった9章以降に強まっていくのだ。特に10章以降に訪れる列車の旅の、そのエモーショナルさにおいて。

大きなものをなくしたあと、窓から差し込む太陽の光のこわい眩しさ。冷え切った空気をまとって走る列車のなか、曇った窓ガラス越しに見える、寂漠とした期待だけをはらむ景色……。
びっくりした。このゲームを作っている人は悲しい気持ちになったことがたくさんあるんだろうとすら思った。そういう、私がまさしく体験したことのある、旅のすがたがそこにあった。オープンワールドの頃の陽性な車の旅とはまた違った、大勢でいても孤独な陰性の列車の旅、だ。きっと、もしかして、と妄想をする。私は〝彼ら〟の10年間を追体験しているのではないか? 初めは楽しく、あれもしようこれもしようと顔を突き合わせながら話し合い、青空の下を駆け抜け、小さなタスクを場当たり的に解決し、――そしていつの間にか、何か大切なものを失い、何よりも尊いと思っていた仲間も櫛の歯が欠けていくように、いなくなっていく……。そして気づけば、月日は――。


私は、このゲームを旅と定義し、それを貫徹させたディレクションにとても感動した。ここまでカオスになったいくつもの要素をまとめ上げるのに、それ以外の選択肢はなかっただろうとすら思えた。ラストダンジョンとして訪れる荒廃した新宿の姿。本来であれば、私はこの場所を、荒廃する前のこの場所を、自由に行き来し、飛び回れたはずだ。でも、もうそこにはがれきが降り積もり、私は決められた場所をただ、進むしかない。長かった物語を終わらせるために。
物語が終わりに近づくにつれ、ゲームとしての体裁の結び目はどんどん緩くなり、いつほどけてバラバラになってもおかしくない状態で、しかしこのゲームは踏みとどまりきった。そしてある時点で、このゲームが踏みとどまりきった理由が、オープンワールドであることよりも昔ながらのJRPGであることよりも、何よりもFFであろうとした、その一点にあることが了解された。DQほどわかりやすい〝らしさ〟はFFにはないのだけれど、確かに、特筆しうるFF固有の体験というのは、ある地点で世界のありようが喪失という形をとって劇的に変わる、その瞬間の衝撃なのだ。加えて言うなら、それでもまだ、私の代わりを務めるキャラクターたちはなお(パラメータという数値化された固有性において最も顕著に)不変である、という身も蓋もなさ。そういったものを含めて、このゲームを作った人たちはFFというものの定義に、最後は立つことに決めたのだろう。その表象としてもまた、旅という選択された中心軸は確固たるものだ。

 

このゲームが『ファイナルファンタジー』というジャンルに留まりきった様子からは、ほとんど意地というか、いや違うかな、『ファイナルファンタジー』を作ってるんだ俺たちは、という矜持を感じ取ることができる。
問題は、発売日を迎えたこのゲームのクリエイターの旅がまだどうやら終わっていないらしいということで、いくつもの追加データやらコンテンツが今後も用意されているが、正直私は現状で大満足しているので、グラディオラスがいなかったあいだの彼のエピソードは別にまあ……。
FF15はあの13章の出来も含めて完成されていると思うし、とにかく面白いゲームを有難うございました。

【バイオハザード ザ・ファイナル】魔法の言葉それは You are fired.

東京ゲームショーを王様のブランチが取材していた。FF15を紹介する段になると、プロデューサーは申し訳なさそうにこう言った。「15とはいうもののお話は続きではなく単体で楽しめますので宜しくお願いします」。そうか、ブラン娘(ブランコと読む。ブランチのレポーターの総称。死語なのか)くらいの年頃にとってはファイナルファンタジーは未知の存在で、「ナンバリングが付いている作品はどれもこれもお話が連続しているに違いない」という当て推量が適応されてしまうのか。これは宣伝が大変だ。これが10年の空白の意味か。

しかしバイオハザードの映画はそれとは全く話が違う。バイオハザードの映画は、ミラ・ジョヴォヴィッチ演じるアリスという女性が主人公の、全ての作品のストーリーが繋がった映画シリーズだ。だから前作までを見ていないと話がわからない。わけではない。前作までを見ていたほうが話の内容はわからない。こっちのほうがタチが悪い気がする。

映画の内容はコント集みたいなものです。ゾンビが出てくる、倒す、オチがつく時に何人か死ぬ。肉弾戦もありだよねーってことでイ・ジュンギ(かっこよかったので名前覚えました)とのカンフー的バトルもあるがそこにもオチがつく。

そして映画のクライマックスに響く勝鬨の声、「You are fired!」。WWEファンにはおなじみの、マクマホンファミリーの伝家の宝刀。しかしその声の威勢とは裏腹に、あんまり言われた方には効果がなかったりする。次から会場に来るなって言っても大体は普通にチケットを買って観客席から登場するし。けれどもこの映画の「お前はクビだ」は即効性の毒のごとくに対象に影響を与える。これだ、これこそが私が求めていたものだ。コントの真髄だ。現存する未感染の人類は4,400人程度まで減っていて、そんな状況でなお「株式の何割を所得しているからそんなことを言う権利はない」とかいう会話がされていることも含めて良いコントだ。っていうか4,400人!シリーズを重ねるごとに人口は減少し映画のクライマックスでどれほど「目の前の敵は倒した」と思ってもズブズブの撤退戦でしかない戦いをアリスは続けていたわけで、お話が続き続ける長い続編っていうのはやはり悲劇なのだなあ。

12.3NXT大阪公演〜中邑真輔ありがとう〜

新日本プロレスのインターコンチネンタル王座は、強さのベルトではなかった。
白くなってからのあのベルトが象徴するものはスタイルであり、かっこよさであり、生き方だった。
そして、中邑真輔のベルトでしかなかった。たぶん、今もだ。そんなベルトが何年間も、新日本の興行のセミを支えていた。なんとも不思議で、不可解な話だ。メイン戦の直前の大事な時間を空間を、強さとは別の価値観が支配している状況が、当然のような顔をして何年も続いていたのだから。

プロレス人気が復活したと言われるようになって久しい。電車の中で高校生がプロレスの話題で知識の多寡を競い合うのが聞こえてくる。なるほどこれは本物だ。彼らは恥じない、気に病まない。どこにも痛みはない。そういうふうにプロレスの話が、できるようになった。

総合格闘技ブームによって打ち砕かれたのは実はプロレスの〝人気〟ではなかった。プロレスは強い、プロレスラーは強い、という信仰こそが打ち砕かれ、プロレスファンのプライドが粉々になったのだ。そのトラウマが、プロレス暗黒時代の痛みだった。
新日本プロレスの経営母体がブシロードに変わって以来、毎年のように年末には「プロレス人気再興の秘密」という記事を経済系のウェブ媒体で見るようになった。これは年始に開催されるイッテンヨンの告知宣伝記事とほとんど変わりがない。そしてそういった記事には決まってこのような定型句が登場する。
「プロレスは勝ち負けが全てではなく、ファンはリングの上で見せられる生き様に感動しているのだ」
この定型句には埋み火のような痛みがちらちらとくすぶり、その赤くにぶい、しかし温度ばかりは高い炎の断片からは、現在のプロレスファンが何を見て、何を見まいとしているのかがうかがわれる。
「私たちが見ているのは勝敗じゃない。強さじゃない。だからプロレスを見ない皆さん、プロレスは初めから勝敗が決まっているとか、プロレスラーがロープで跳ねて相手選手に戻っていくのは変だとか、ナンセンスでつまらない指摘はしないでほしい。私たちだって、わかっているんだ。わかってて、見ているんだ」
そんな信仰告白を励ましてくれたのは、中邑真輔の言葉だった。
「いちばんスゲェのは、プロレスなんだよ!」
強い、ではなく、すごい。言葉の効果と意味の厳密性に気を遣う中邑真輔だから、彼は意図して、強い、という言葉を使わなかったはずだ。少なくとも最初の時以外は確実に。この叫びを聞いて、プロレスファンは思う。
「そう、私たちが見ているのは強さではない。強さの向こうにある、すごさだ」と。
気持ちの上では言い訳に言い訳を重ねて、しかしプロレス人気は徐々に回復の兆しを見せている。プロレスは、恥ずかしく虚構にまみれたインチキではなくなっていっている。ソフィスティケイトされてロジックを獲得してきたと言ってもいいだろう。私にしてみても、そのロジック――強さではなく、他の何かを見るのがプロレスだ――がなければここまでプロレスにのめり込むことはできなかったはずだ。この世界にある自分とは距離のあるいくつもの物語をロジックを用いて自分のもののようにして受け取り、吞み込み、吐き出す行為。欺瞞といえば欺瞞だけれども、そうすることで人間は生き延びる。
猪木という巨大な虚構に見出され、その後の冬の時代を生き続ける中で、中邑真輔は自らのスタイルを作り出し、すごさをわかりやすく演出し、強さとは別の、神々しさとでも言うべきカリスマを纏うことを選んだ。「あびせ蹴りするなら骨法の道場に通え」と言って、使う技ひとつひとつを中邑真輔というロジックで有機的につなげていった。形式を重んじ、それらを自分という論理でつなげてひとつの虚像を作り出すこと。それはあるいは棚橋が捨てた野毛道場の猪木の等身大パネルストロングスタイルの呪いを静かに引き受ける行為だったのかもしれない。実際、いまもっとも人口に膾炙している中邑真輔の二つ名は、〝キング・オブ・ストロングスタイル〟だ。

わたしもその神々しさに、かっこよさに惹かれた一人だ。

はじめて中邑真輔を見たときのわたしは今よりずっと死にたくて、痛みを知る人間でありながらどこまでもスタイリッシュな中邑真輔の輝かしさを、夜闇の中の蛾のようにわたしは追った。できるならその輝きに焼かれてしまいたいとすらきっと思っていた。その輝きがわたしを慮って「いちばんスゲエのはプロレスなんだ」と慰めれば、単純なわたしは生きることを延期した。強くなくてもいいと、強さを見せているのではないと言ってくれる。彼はわたしの逡巡の中身を見てくれている。あの美しいものが、わたしたちを見てくれている! あなたの言葉で、わたしたちは生きよう。強さ弱さの物差しでわたしたちを嘲う者たちの言葉を、聞かない態度を肯定されよう。

けれども、12月3日のエディオンアリーナで見た中邑は、強くなろうとしていた。彼は神々しさをアメリカ大陸のどこかに折りたたんでしまって、いつの間にか死すべき運命を知る人間になっていた。かつてわたしが寄りかかって当てにしてフラフラと近寄っていった輝きを、どうやら自らいらないものと決めてしまっているらしかった。
サモア・ジョーとの体格差は圧倒的で、確実にパワー負けしている試合内容を、どうにか自分のスタイルで突破しようとする中邑。長身だが細身で、ガタイがいいとはとても言い難い中邑真輔は――かつてのブロック・レスナー戦を思い出せばわかるように、まっすぐ向かっていけばいとも簡単に弾かれてしまう。そんな相手に勝つために、観客を熱狂させる優雅さに優先されていたのは、強いものに勝つ愚直さと意志だった。
選ばれし神の子でもなければ猪木の寵児でもない。格闘技路線の象徴だってもちろんない。そこにいる彼は中邑真輔だった。自分で生き方を選んであそこにいて、遠い異国の地で、いちばん残酷な評価基準に身を委ねる。そういう戦い方を、中邑真輔は選んだのだ。わたしはそのときはじめて気づく。わたしたちが生き延びるために、中邑真輔をわたしたちが利用していたことに。
当たり前のことに気づく。人間は神にはなれない。なのにそのように振舞っていた人は、きっととても、ずっと、不自由だったはずだ。人によってはしかしその不自由はある種の快楽でもあるだろう。人の上の立つこと。崇められること。

中邑真輔は、自由を選んだ。得たものは、強くなる権利。失ったものは、神の輝き。

もうわたしも中邑真輔になすりつけるのはやめよう。わたしが「中邑真輔の中にあるわたしを救ってくれたもの」だと思っていたものは、つらくて死にたくて生き延びられないわたしが投げつけてへばり付けたわたし自身の輝ける何かだったのだ。それはわたしの中にあるときは輝いていなかったから、美しくて健やかで苦しみを知るものにわたしは頼るほかなかった。中邑真輔はそういうわたしたちをぜんぶ引き受けていた。プロレス人気回復のためにもっとも厄介で邪魔くさいストロングスタイルという言葉すら、中邑真輔は背負っていた。背負いながら、わたしたちの痛みを慰撫する言葉を発していた。その献身こそ、神がかりであろう。
棚橋が捨てて忌んだストロングスタイルという言葉は、海の向こうで熱狂と信仰とともに迎え入れられ、生き延びてしまった。でも、それはかつてのままの姿ではない。信仰が人間のものになったときはじめて、人間の時代が始まる。未開から足を踏み出して、自由になれる。
ひとは自由になれる。自由になるためにわたしたちは生きている。それを中邑真輔は、プロレスは教えてくれた。

大阪公演のメインのあいだじゅう、ずっとわたしは泣いていた。やはり生きていてもいいのだと、強くなってもいいのだと、生きたい生き方を選ぶのが人生であり命であるのだと。それがどんなに難しくても、中邑真輔はそういうふうに生きていくのだと、日本にいた頃よりいくらか筋肉の稜線が険しくなった肉体全てで、わたしたちのためではなく自分のために、彼は戦っていた。そのすべてがメッセージで、そのすべてが新しく約束されたロジックだった。世界の初めには言葉が――ロゴスがあったと、聖書は語る。あそこは始まりの地だった。中邑真輔に生かしてもらったわたしがまた始まれる場所。

今までありがとうございました。これからもずっと応援しています。

【ソーセージ・パーティー】奴らが殺しにやってくるのは必然

擬人化がたいそう苦手だ。しかしむちゃくちゃ流行っている。最近はそうでもないのかな。まあいずれにせよ驚くほど苦手なので本屋やネットのそういう情報をひたすら避けている。

擬人化、特に日本の擬人化は、作品世界では人間の存在(擬人化される際のモデルとなる存在)は、ほぼオミットされているか、やたらと人間を慕っているかの2種類だ。これが何よりきついらしいということに『ソーセージ・パーティー』を見たら気付けたので良かった。なのでいつもはネタバレとかしないようにぼんやり感想書くけど今回は映画の内容をすべて書く。面白いし驚きもある映画なのでネタバレなんか見てはいけない。公開館数も少ないから如何ともしがたいけど東京だと六本木ヒルズで見られます。ちなみにここで私が言う擬人化は、必ずしも動物や物を人間の姿に描き変えることではなく、それらに意思を感じて喋らせる行為全般のことを想定している。『トイ・ストーリー』とか『ファインディング・ニモ』とかも擬人化の一種といえるし、前者はともかく後者の人間は割とロクでもないのでこの点は大変ありがたい。

『ソーセージ・パーティー』の主役はスーパーマーケットで売り物にされているパック詰めのソーセージで、独立記念日を前にして専用の陳列棚でホットドッグ用のパンのパックと並んで売られている。ソーセージは男性、パンは女性の表象を与えられていて、透明な袋の中でもぞもぞしながら主人公のフランクは意中のパンのブレンダに「早く君に挟まりてえぜ」とムラムラしているし、我慢できずに先っちょだけ触れ合ったりする。

スーパーマーケットでは売り物たちは朝の開店時に「早く買われたいな。神(客のことだ)に選ばれてスーパーの外に出られる日が待ち遠しい。外の世界は夢が叶う天国だ」の歌を歌う。賞味期限が切れてゴミ箱に捨てられるのはなんか絶望っぽいからできれば避けたいと彼らは思っているので、何としても買われていきたい。

しかし外の世界に一旦出て行ったハニーマスタードは返品されて戻ってくるとめっちゃビビってる。「外の世界は天国じゃない」とか言う。しかし不運にもすぐにもう一度、今度は別の客にお買い上げされそうになり、あそこに戻るのは嫌やとカートから投身自殺を図る。フランクが彼を助けようとした結果、カートは転がり商品はゴロゴロ落ちてスーパーの床は地獄絵図。まずここのビジュアルが良くて、まんま『プライベート・ライアン』な戦場シーンがポテチやジャムで再現される。オレオ的なビスケットサンドが自分から剥がれてしまったもうかたっぽのビスケットを地面から拾い上げてわなわなする。爆発に巻き込まれた兵士が自分の腕を拾い上げてわなわなするスピルバーグのよくやるやつみたいに。ここでこの映画の悪ふざけは頭のいい人たちがニヤニヤしながらしている悪ふざけだと気づくので「狂ってるw」とか言えなくなる。セス・ローゲンなどの奴らは大真面目にふざけているので、「狂ってるw」とか言う私たちを見てニヤニヤするに違いない。頭がいいですね。

なんとか生き延びたフランクたち――フランクとブレンダ、そしてベーグルとラバシュ(中東のチャパティみたいなピラピラしたやつ)は、自分の棚を目指して閉店後のスーパーの中を冒険することになる。フランクはハニーマスタードが今際の際に言った「火酒が外の世界の真実を知っている」という言葉が気がかりなので、お酒売り場に寄るなどして真実を知りたいが、ラバシュはベーグルと喧嘩するしブレンダは信心深いのでハニーマスタードの言ったことなんて気にすんなって思ってる。なのでフランクはこっそり火酒と接触する。

結論として、「朝の歌」と「外の世界は天国」という設定は長期保存がきく火酒などの食品たちがスーパーマーケット内の秩序を維持するために作ったでっち上げでした。ええ〜マジで。でも結果が同じなら生きている間くらい夢見たいじゃん? 死ぬのは不可避だし。人間も死ぬのは不可避だし、天国があるなら多少は死への恐怖もごまかせる。それは悪いことじゃない。神は神で死は死だ。どうしようもない。

一方で、フランクといっしょにパックに入っていた仲間たちは運良くカートに残れたので買われて外の世界に行ってしまった。彼らはその後スラッシャー映画みたいな目に遭い(アメリカの人はジャガイモの芽を取らないのか? と心配になった)、生き残って逃げ出したソーセージの一本でフランクを慕っていたバリーはヤク中の男の人とコミュニケーションをとる。現実世界ではバスソルトをキメると人の顔を食べる事件が起きてすわゾンビか? とネットがざわつくがこのアニメでは多次元への感覚が開かれてソーセージと喋れるようになる。ちなみに外の世界はスーパーの商品にとってはマジで地獄でした。コーン粒がいたと思ったらうんこの中でゾンビみたいになってたりとか。バリーはヤク中の人の家で噛んだ後のガムとか使用済みのトイレットペーパーとかと結託してある結論を導き出す。

「神は殺せる」

まさかの能動的ニーチェ。ヤク中男性は部屋に飾っていた斧が落ちてきて自滅的死を迎えたのであった。そしてスーパーマーケットに戻ってきたバリーはその事実をフランクに伝える。いい言葉だ。「神は殺せる」。でも観客はびっくりする。なんだかんだでソーセージとかに感情移入して「ガンバレー」とか思ってて「彼らがどうすればハッピーエンドになれるかな」とか考えてたのに結論が「人間(観客も人間だ)を殺そう」だったらびっくりする。でもまあ当たり前だよな、殺るか殺られるかだよな。勝手にソーセージに感情移入して捕食者としての残酷さを忘れるんじゃないよって話だ。自分のことを残酷だと思いたくないのならソーセージに人格がある妄想なんてするもんじゃない。

あとはまあスーパーの食品たちが知恵と勇気で戦って勝つ。勝利のあとは乱交パーティーが開かれる。スーパーの商品たちはフランクやブレンダに限らず上映中ずっとセックスのことばっかり考えているからね。でもこれって「お下品」映画だからってわけじゃなくて、例えばラバシュは天国に行けば77本のエクストラバージンオリーブオイルでピラピラを浸すことができると思っているのでフーリーだ。つまり現実だ。乱交シーンは清々しかったし興奮したが、R15指定なので高校生もこの映画は観れる。いいのかそれで。ソーセージだからか。それこそ擬人化された彼ら彼女らの実在とセックスを侮って軽く見ている証左にほかならないのではないか。

と、ここまできたらお分かり頂けると思うのだが、私が擬人化に対して嫌悪感を抱いた原因というのは、擬人化っていうのは普段私たちが意思のないものとして接しているものに自我を認めることなのに、どうしてそこに相対する人間としての私を抜きにできるのか、という部分だったんですね。電車だろうが兵器だろうが文房具だろうが概念だろうが、一個のパーソナリティを持つ相手として接するつもりなら、相手が自分のことを、人間全般のことをどう思うかまで考えることこそ、想像力であり誠実さなんじゃないのかな。自分の姿を忘れて、ただ相手を消費するだけの態度のままで「こいつは俺の嫁」なんて、ちょっとムシが良すぎる。

でも、もしアニメキャラの人権を認めよという活動が起こりうるならば、私は賛成、と言わなければいけない。それくらい私は、彼らのおかげで生きていられている。神は殺せるかもしれないが、死は死のままでソーセージたちにも私たちにも平等に未来に横たわっている。それは二次元だろうが3DCGだろうが三次元だろうが、どうしようもない。

よく「日本には八百万の神がいるから擬人化が得意だし多文化社会が実現出来る」とかクソみたいなこと言う人いるけど、多分世の中にある大多数のものは、意志を持ったら「人間死ね」って全力で殺しにかかってくると確信するよ。そうは思わない、お互いに尊敬がある、とか言う奴はどんだけ自分のこと好きなんだよ。そんなにいいやつじゃねえよお前は。くらいのことをたぶん擬人化に接した時に考えて今までイライラしていたのだ。気づかせてくれたのはセス・ローゲン、あなただ。頭のいいセス・ローゲンがスクリーン越しにニヤニヤしているのが見える。そしてスーパーマーケットではなく映画館にいるので安心仕切っている私たちに火酒は言う。

「俺たちはそもそもアニメなのでこれから俺たちを見ている人たちがいる現実に行こう」

彼らは我々を慕っていないぞ。彼らに意思があると本当に想像しているのなら、そろそろ私たちは覚悟を決めるべき時だ。

【ジェイソン・ボーン】エンプティ・アイデンティティ

俺は誰だと問い続けて三部作を走りきっていちおう俺はあいつで今はこいつと決めつけることができたジェイソン・ボーンの物語はしかし、何か大きな力によって引き伸ばされて続いてしまった。そして当然ながら、ハッピーエンドで終わったはずの物語が続いてしまうと、Zガンダム逆襲のシャアの例を挙げるまでもなくそこに生きる人物は新たな苦しみが与えられてしまう。そしてアムロは死んだ。物語ることは基本的には、悲劇を語るということだ。

まあでも続編を作ること自体は悪いことじゃない。逆襲のシャアはとっても面白いし、とっても大切な映画だ。なんだけど。

自分が誰なのか取り戻したはずのジェイソン・ボーンの中身は過去3作の彼と比べて驚くほどに空っぽだ。申し訳のように添えられた彼と父と組織との因縁はまったく彼の動機たる説得力を持たなくて、カマリア・レイが言った「子を愛さない親がいるものか」みたいなもので、親子ってそういうもんだからそう言ってみてそういうふりをしているだけ感がものすごい。その過去を清算したことで君の心は何か一ミリでも動いたのかいジェイソン・ボーン、あるいはデヴィッド・ウェッブ。一人でこれからどこに行くのだ。過去を取り戻した代償が手垢のついた一般論へと回帰することだというのは、ちょっとあまりにも、残酷すぎはしないかなあ。

【日本で一番悪い奴ら】仕事とは適応すること

ぜんっぜん有能じゃないのにやたらと出世している人がいる。そういう人をよくよく観察すると、その人が属している組織に異常なほど適応している場合が多くて、まあその組織の中の人だったら人事いい仕事したね、って感じなんだけど、いっしょに仕事する、なおかつその組織の外側に人間にとってはもーいい迷惑。下請けだったらそこの売り上げを諦めたりフリーの人だったら逃げて食い扶持を失ったりだ。

稲葉事件の成り立ちも完全に組織への過剰適応というか、警察というものが公共の益にしかならないものだっていう前提を信頼しすぎて警察官が常に自身を免罪し続けたからで、「ケーサツが捕まえたから悪いやつに決まってる」って世界観は本当に危ないよ。

警察は市民の治安を守る仕事<不動の大前提>→市民の治安を守る成果を数値化(ノルマ)→ノルマを達成すれば予算アップ→ノルマを達成するために銃をヤクザから買う→銃を買うお金のためにシャブを売る→えっそんなことしちゃダメだろ……→警察は市民の治安を守る仕事<不動の大前提>→だから大丈夫

そんな馬鹿な。

これは警察に限らずどこでも見かける態度でもあって、組織のために手段を選ばずにやってたら<組織=自分>になっていて、自己保身と見分けがつかなくなって残されたのは地獄への道だけだったってことは往々にしてある。自分が責められた時に背後の大きいものへの忠誠を口にして言い訳するのってでもみんなやるよ……私もやるし……。

綾野剛演じるモデルは稲葉の主人公ははじめは柔道が強いだけの何物でもないからっぽの大人になる前の存在だったのが、ピエール瀧と出会い薫陶を受けることでいちおう自我らしきものを得る。自分を自分らしくさせてくれたものを守るために全力を尽くすのは当然のことといえば当然のことであるわけだけど、じゃあいったい「正しい私たち」を保証してくれるものってなんなんだろうね。いつ、身につけなければいけなんだろうね。

【orange】親の生死は守備範囲外

WOWOWにて鑑賞。

歴史改変ものの少女漫画と聞いて想像してた内容とはずいぶん違ったなあ。改変ものにありがちな「予見される危機をどのようにして回避するか」は主人公の土屋太鳳さんの眼中に全然なくて、いかにして翔という同級生の気持ちを盛り上げて精神を安定させるかっていうところが大きな目的。だから近々の未来がわかっても、その事実は「ちょっと勇気を出すきっかけ」に留まる。うまくいくとわかるなら、そうしなければ後悔するとわかるなら、私だって勇気を出せる、という理屈。でも、『リレーの時に転んで翔はショックを受けてしまいます。だからリレーの選手にさせないようにしてください』という展開にはさすがにズコー感があったよ。翔をなんだと思っているんだ。

起こってしまった出来事を過去にやり直すこの場合の最善手は〝母親の死を回避すること〟なんだけど、未来の土屋太鳳はそこに力を入れないし、過去の土屋太鳳もあんまりそこのミスを後悔しない。このくらいの年齢の人々にとっては親の死は仕方がないこと、だけど同級生の死はなんとかできるかもしれない・してみせる、ということなんだろうけど、大人からするとちょっとっていうかかなり冷たい世界観だな……としょんぼりしてしまう。

せっかく10年後の、ちょっとだけ大人になった自分からのアドバイスなんだから、高校以外のもっと広い世界を前提にしたことを言ってあげてもいいと思うのだけど(病院紹介するとか)、そういう「大人になればわかるよ」的な視点こそ若者がウザがるものだっていうのも、わかる。

でも大人が高校生にこういう物語を見せるのは、ちょっと不誠実ではないかな、と大人の私は思ってしまう。