おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

WWE LIVE Osaka2017を見てWWEのやり方に気づく

とりあえず中邑真輔の話をするね。

去年の大阪公演で中邑真輔が見せてくれたのは、ここからまた始まるのだという自然体の決意だった。見る者もまた、そこから始められることを促されるような。いつでも人は劇的に変わりうるのだという困難さを当たり前のもののように表現する中邑真輔。それは彼の生きてきたプロレス人生がなければ完成されえないすべてを包含する芸術だった。

先だって、WWE LIVEをフロリダで観戦したのだけれど、フロリダで見た興行も大阪で見た興行もSmackdownブランドだったから余計わかりやすかったのだけれど、その両者は基本的なパッケージはほとんど同じだったんだよね。って言うか今年は両国公演を含めて年に3回WWEを見たことになり、プロレスがちょっと好きなアメリカ人よりWWEを観戦してる気がするのだが来年もぜひどこかしらの公演を見に行きたい。ついでに来年もちゃんと両国、大阪の2公演をしてほしい。ぜひとも。でもWWE mobile終わっちゃったんだよね……どうなるんだろうか……。

フロリダのメインのベビーはランディ・オートン。大阪のメインは中邑真輔。相手となるヒールはどちらもジンダー・マハル。試合は一進一退の攻防でありつつランディ・中邑が優勢だが、シン・ブラザーズの介入により隙を見せざるをえなかったベビーは敗北を喫し、しかし試合終了後に立ち直って自らのフィニッシャーを華麗に決める。オートンはRKO、中邑はもちろんキンシャサだ。その日一番の大音声が客席を埋め尽くし、気持ちいい笑顔を浮かべて観客は座席から立ち上がる。

ものすごく効率的なやり方だ。ひとつの脚本、多彩なタレント。あとはその興行をする地域に合わせてメインをすげ替えればいい。最近はWWEも会場にあまり客が入らなくなっているというニュースが流れがちだけど、WWE Networkの機能をよりワールドワイドなものにするために世界ツアーをより活発におこなっていく方向性にするのなら、まあアメリカ国内の動員が減ってもあんま気にしないのかなあって感じはする。もちろんLIVEならともかくRAWとかで空席が目立つのはよろしいことではないしアメリカ国内での求心力は弱まっている気はするのだけど。今のご時世トランプと仲良しこよしでオッケーっていうエンタメはキツイよやっぱ。応援するのも。まあこの辺の愚痴はいいや。とにかく。

そのワールドワイドパッケージの重要なピースとして、中邑真輔というスーパースターはパーフェクトに機能していた。それは当たり前な話で、プロレスラーとして彼が一流であるからという理由以上に、日本においての最適な振る舞い方を中邑真輔は知悉しているからだ。それはほかの日本人ではないスーパースターの誰にもできないことだ。WWEはエンターテイメントの最大公約数的なやり方を持ち合わせてはいるが、WWE Networkに世界中の人が9.99ドルを払ってもいいと思わせるためには不十分なのも間違いはない。世界サーキットはWWEを愛するユニバースのために用意されるご褒美のお目見えではなく、その国、地域を侵略する愛想のいいセールスマンにならなければならない。そのために必要なものは?たった一人の、現地の人間だ。言葉がわかればいい。好かれていれば、最高だ。

なんつーのは言い過ぎだとは思うけど、いろんな国のバックグラウンドの人を集めているのは確かなことだし。メイ・ヤング・クラシックにいたっては国別の対抗戦の形を与えられていたので、かなり露骨である。グローバルなビジネスだなんだと言っても、そこで最大限の利益を出すためにはどこまでもローカルに接近しつつ経済活動を成り立たせる最小単位を見つけ出す、というのが現代のビジネスなんだろう。資本主義は国境を越えて全ての人間を経済活動の奴隷にするが、しかしそれでも人間の心性は絶対に小さな箱から出られない。不自由は広がり、自由は決められた場所から動かない。

そんな中で中邑真輔は一年のあいだに全てを新しくした。三十代後半にしてまっさらな新人の状態になって、しかし大人になってじゅうぶんに努力した人間のスタートはゼロではなく、なおかつそれまでと同じことを繰り返す必要もない。人はいつでも始められる。彼は同年代のあらゆるプロレスラーの中で、いちばんかっこいいひとだと、プロレスファンにもそうでないひとにも、私は見境なく教えたい。

【猿の惑星:聖戦記 グレート・ウォー】猿の十戒、あるいは地を這う罪深き者

50年前くらいの映画みたいなお話ぶりでドキドキしたが最後まで見ると納得。なんつーか、聖書だ。スタジオ制作の聖書スペクタクルなお話だ。

シーザーは何者かなと思っていたらモーセだったし聖戦記と言いつつ出エジプト記だった。前作で原罪を猿のものとし死んだコバはシーザーのもう一つの姿としてたびたび姿を現し、シーザーはその影に苦しみながら猿たちの苦難の旅を安寧の地へと導く。ときに猿たちは異教徒に囚われ使役されるが、神が与えたもうた試練とわざわいの中を歩み続け、預言者はその使命を成就する。

とにかく世界にはほぼ人間がいないので画面は猿で埋め尽くされる。見渡す限り猿猿、猿猿、人猿猿。これは観る方も大変だし作る方はもっと大変だと思ってたらさすがに途中で少数精鋭猿の旅になる。人間以外のものへの親近感の限界みたいなものを感じた。脳がうまく画面の中の社会を位置付けられないのかも。猿がもはや現実としか言いようがないくらいリアルだから余計に。そして猿はほぼ手話と猿語?で話すからマジで猿のための映画を見ている感覚に。猿による『十戒』とも言える。ん?『十戒』ということはつまりチャールトン・ヘストンの系譜で……ここで『猿の惑星(1968)』と接続される……そうか、そういうことだったのか。とにかく全体として不思議体験なので映画館で見るのがオススメ。

前作『猿の惑星 新世紀』でいちばん感心した部分は語り口とか猿のCGとかではなく、アクションの新しさだった。猿は人間と違って上下の移動が得意なため、文字どおり縦横無尽に、高さのある見たことのないアクションを猿たちは披露してくれた。猿アクションだ。これにはかなりワクワクした。明確にそれは、人間と猿との違いだった。猿は人と違う文明を築くだろうと予感させる、意味のある画作りだったと思う。
そんでもってその〝猿と人間の違い〟が明確な意味を持つシーンが完結作たる今作には存在したので私は大喜びだった。人間など、するすると木に登れる猿にとっては、聖書における最初にして最大の誘惑者たる蛇に過ぎないのだ。神はその誘惑を知って蛇を生涯、地を這うものとした。猿にしてみれば、人もまた地を這うものに過ぎない。悲しくなるくらい、人間には何もなかった。もはやおそらく大多数の生き延びようとする者には魂すらも……うう……。

禍々しく用いられる「Stars and Stripes Forever」、燃えてちぎれる星条旗。怯えた自分をごまかすためだけに、奴隷を使役して築かれる無意味な壁。壁だ!約束された場所はアメリカではなかった。似たようなテーマ、危機感、同じような作りの映画をもう何本も見ているし、終盤はまんま『ローガン』だった。みんな同じように「やばい!」ってまじで思ってるんだな。それをちゃんと映画で語ってるんだから、いろいろキツい状況だっていうのはわかるし夢の国ではないのかもしれないけど、絶対に希望を持つことを諦めていないアメリカやっぱすごいよ。

大逆転裁判2は細かいことは気にすんなのタップダンス

まさかの未完シナリオから2年ぶりの続編ということで内容もまさしく前作からの続きで、コンシューマゲームってとりあえずひとつのパッケージとして終わるよねっていう私の先入観こそが甘えだったのだろう。でもみんな、前作の最初の事件の犯人とか覚えているんだろうか。予算の関係か、合間に挟まるアニメがなくなっていてそこだけ続編感がなくなっていたが、まあなくても良さげな感じはした。5から入っているアニメーションだけど、キャラデザがいつも微妙に立ち絵と違っているし、アニメーションそのもののテンポも妙に悪かったし。

UIや音楽は一つの完成系と言ってもいいくらいにリッチでこれぞ老舗メーカーのゲームっていう貫禄は見せるが、肝心のシナリオに先が気になる要素が全然なくてゲームの進行が作業っぽくなっているのは残念だった。っていうか多分この気にならなさは洗練されすぎたUIにも由来している気がする。シナリオの外連味とともに歩くような、古いハード特有の荒さが寄与してたものって、意外と大きいんじゃないかなあ。まあ、3DSの画質がいいとはもはや言えない時代ではあるんだけど。いま、レトロなインディーゲームがものすごく面白いナラティブを見つけてる理由もその辺にある気がする。

前作にゲスト的に登場していたキャラが重要な立ち位置で再登場するのだけどその再登場の仕方がびっくりするくらいしょうもない。それが許されるんだったらもうなんでもいいじゃねえか。リアリティ的にありえないというよりは、お話の盛り上げ方としてのズコー感がすごい。肝心の最終的な陰謀も、伏線のつじつま合わせのために作ったような内容で、おまけにデウス・エクス・マキナとしてのホームズが最終的には全部なんとかしてくれるので今まで何もしてくれなかったのはなんでなん。

キャラデザはとっても素敵で、ホームズもグレグソンもスサトさんもいい感じのリアリティライン。そのぶんアイリスちゃんだけファルコムRPGから出てきたん?ってくらいにデザイン過剰なのは前作からだけど気になった。

っていうかホームズの原作を好きな人ほどワトソンの扱いとかキツイのではないだろうか。ホームズ物のパスティーシュはそれこそ数えきれないほどあるしかなり評価のハードルは上がっちゃう側面があるのだけど、とりわけこの作品内では一個一個の要素の使い方もかなり雑、というか単語だけいただいてますとでも言いたげな風情。あと推理するときのタップダンスが私にとってはダサ案件だったので4度ほどの悶絶を強いられた。なぜ突然タップを刻み始めるのだ。そういうつもりなら、私だって楽しく踊ろう。

プロレスについて(序)

プロレスについて語るべきことが多くある。
プロレスを知ってから、私の見る世界の解像度は明らかに上がった。曖昧として指標のなかった世界は、プロレスを通してみるとあまりにも自明だった。その気づきを経た今となっては、プロレスへの視線は明確に理不尽であると断言できる。
「所詮はプロレス、真剣に受け取る方が馬鹿なのだ」
幾つものごたごたや喧嘩を批評し、観察し分析しているつもりの人々の口から、この言葉を何度聞いただろう。つまりここで語られる言葉の意味は、「観客、オーディエンスに向かってのパフォーマンスに過ぎず、見世物でしかないやりとりである」という揶揄だ。この言葉を発した者たちは、――私ははっきりと断言するが――何も考えていない者たちだ。何も見えておらず、何も省みない人たちだ。たとえばちょっと昔に、このようなことを言う人がいた。
「本当に田舎のプロレス。ロープに投げて帰ってきて空手チョップで一回倒れてみたいなやりとりの中でやっている。私はある意味で茶番だと思う」
「茶番」! なんとわかりやすく、典型的でステレオタイプなプロレス評だろう。ステレオタイプというのは、この「茶番」という言葉を指して言っているのではない。プロレス、あるいは自分が蔑むものに対して「茶番」という言葉を投げかけることで、自分が優位に立ったと勘違いできる、そのあまりにも臆病で卑怯な態度のことを、ステレオタイプと言っているのだ。彼らは社会の周縁にいつもそういうものを必要として用意する。あるいはそういうものがある場所を、社会の周縁と呼んでいるのかも知れない。
けれど私は、ここでも断言したいのだけれど、プロレスを周縁の、真剣に語るに値しない、欺瞞に満ちたパフォーマンスだと侮る態度は確実に、世界を見る目を曇らせて、いま何が起こっているかを理解する手がかりをぽろぽろと指の隙間から落とさせる要因となっている。「なぜ、私の手のひらには何も残っていないのだろう?」何度も私は嘆いて叫び、その手で顔を覆ってあとは涙だけが滴り落ちることになった。
いまならわかる。それは私が侮っていたからだ。プロレスを、プロレスに類する何か世間的には胡散臭くて真実めいて見えないものを鼻で笑い、私は足元にわだかまっているものを理解しないまま低俗なものとして蹴りながら生きた。そこにあるものを見ようとせずに、しかしそれはわたしの一部だったのだ。
いまならわかる。それをすくい上げることができれば、それを手のひらにとどめることができれば、それにはとてもわかりやすい一般名詞を見出せるはずだったのに。
神話だ。
ゆるやかな階段のようにくだっていく指先からその付け根の控えめな盛り上がりまで。もっとも低い場所、落ちくぼんだその中心に濁ったような曖昧さを揺らめかせながら、いくつかの、いくつもの色を混じらせてその水面に複雑な輝きをもたらしている。
色、ひとつひとつの意味をわたしは知りたくてたまらない。いつかわたしが腕を下ろしたとき、流した涙と同じように輝きが散って地面に落ちるまで、その水面を、溶けあってひとつのものに見える神話の意味をわたしは見つめ続ける。
プロレスについて語るべきことが多くある。誰も聞いていなくても、私は虚空に向かって話そう。そのように人生は費やされるべきなのだと、私はあの四角いリングと三本のロープのどこかから響くコロスに、教わったのだから。

【ジュリーと恋と靴工場】パリ、靴、恋=ル・シネマ商法(濡れ衣)

ル・シネマ枠という考え方がある。Bunkamuraル・シネマでかかるような映画好きマダムたちに向けてのパッケージで、タイトルにはふんわりとしたイメージを孕む単語の文字が躍る。「パリ」とか「花」とか。「靴」とか。あと文芸系の作品。ブロックバスターとは縁遠いこれらの映画を、ささやかに上品に届けてくれる。問題はけっこう中身が宣伝からはわかりにくくなることだけど、これはル・シネマ映画に限らず古くから多くの配給会社がやっている。一時期ちょっと炎上した「未来を花束にして」の邦題のつけ方もこの文脈で説明できる。でも今調べたら別に「未来を〜」はル・シネマでやっていたわけじゃないので完全に濡れ衣だった。ごめん。この「ジュリー〜」も新宿ピカデリーで観たので二重に濡れ衣だ。でも言いたいことはわかってほしい。血が出たり悲しかったりするシーンはできるならば見たくない映画好きの方というのは一定数というか劇場に足を運ぶ割合としてはかなり多く存在するのだ。そしてそういう人のおかげでヨーロッパのおしゃれ映画が観れたりするのだ。

ジュリーと恋と靴工場」はミュージカル仕立てのフランスの靴工場のお話だが普通につまんなかった。久々につまんない映画を映画館で見た。この映画をル・シネマ商法で売ったろうって攻めてきたGAGAの力技には恐れ入った。職人たちがプライドを持って靴づくりをしている老舗の工場がメイドインチャイナに負けて閉鎖されちゃう!どうしよう!っていう話なんだけど、「キンキー・ブーツ」みたいな展開を期待するんだけど、主人公のジュリーは靴職人じゃなくて「正社員になりたいガール」なので画面の隅でコソコソしてるだけ。肝心のミュージカル部分もちょっとつらくて、ミュージカル映画なのに「ああ〜歌いださないでくれ〜」って警戒してた。最後の方は。

唯一の気づきは、フランスも大変なんだな……いや日本も相当だけど、悩みの中身は結構おんなじなんだな……ってことくらいかな。「お金がないので履歴書に書ける趣味はウォーキングくらいです」って……。結末もなんかすごくビター。アメリカ映画とかに見られる「これが成功じゃ!成功のモデルケースじゃ!」みたいなものが、日本映画にもあまり見られないように、そういえばフランス映画にもあんまないよね。

【サーミの血】ながされた血ではたりないのだと

私が私のままでいられない世界がある。そんなこと、誰しもが抱える業じゃないかと誰かが言う。ありのままの自分なんて存在しなくて社会の鋳型にゆるやかに人は取り込まれていくのだと。

エレ・マリャはその鋳型に自分を合わせることすら許されない。野蛮で臭いラップランドのサーミは社会の鋳型に入る権利すらないと、万能感に満ち満ちた少年たちに嘲笑われて。身体検査のシーンの絶望たるや、サーミでない私はしかし自分が女性であるという一点でその恐怖に汗が噴き出した。自分を嗤うものをどれほど強く見つめ返したとしても、「俺はお前の裸を見た」と言って勝利を宣言されれば、現在の社会規範は女を敗者にできるのだ。そしてその敗北を自動的に作り出す、笑顔に覆い隠された研究あるいは保護目的の調査。父祖の遺骨を奪われた、先住民族の嘆きを思い出す。エレ・マリャがどれほどの過酷を耐えて鋳型に入り込んだとしても、そこに待ち受けるのはあの少年たちよりもずっと残酷な道行きなのだ……。

エレ・マリャの肉体の隅々から、花柄が染め抜かれたドレスを撫でる指先や美しく編み上げた髪の先から溢れ出す彼女の強さと生命力は、この映画を何か特別なもの、差別の単純化できない複層性を浮かび上がらせるもの、にしている。っていうかいくつなんだ、エレ・マリャ。少女のようにも見えるし、そうでないようにも見える。まるで自身の受けた過去の傷と未来の傷を全てその現在の体に抱え込んでいるかのようだ。彼女は本物のサーミであり普段はトナカイと暮らしていて、女優としての仕事は初めてだという。映画の魔術は空虚なプロフェッショナル論をときに無効化する。

福祉や教育の充実によってある種の理想郷と言われる北欧の世界にももちろん差別はあるという当たり前のことに気づいて、そして私たちは自らの背後にある、ないものと思いたい私たちが当事者として蔓延させる近くの差別にもまた、気づくことになる。気づかなければいけない。

【ダンケルク】時よ等しくあれ、汝が名は故郷

彼らはじっと海を見る。目に見えるほどの距離にhomeがある。でもどうしてここにいるのだろう。あそこにhomeがあるのに。ここは違う、ここは、……。

戦争は時間をバラバラにする。あの人が死んだのはいつのことだったろうか。あの海岸までの道のりは永遠のような果てしなさだ。さて、僕の家にある思い出はもう遠すぎて、本当に平和な生活というものはあったのだろうか、とても信じられない。あの飛行機は、何十人も何百人もの人生を、まばたきするあいだに消し去っているよ。吹きすさぶ海岸の風は二日前のものか明日のものか。確かなことは今、生きていること。死にたくないということ。そしてさらに時間はちぎられて吹き飛ばされてバラバラになる。

夢のようなトム・ハーディの佇む姿のあとに、新聞紙が擦れる音と生き延びた兵士の視線が静かな劇場を支配する。時は一つになり、つかの間の平和は英国のひとびとの歓迎の声の中に取り戻された。だが、すぐにまた時は引き裂かれるだろう。彼らは故郷に、それ、を持ち帰りもしたのだから。