おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

【フェンス】人のせいで苦しむ人に人のせいにするな、なんて言えるものか

スーサイド・スクワッド』の人非人長官を演じたヴィオラ・デイヴィス人非人デンゼル・ワシントンに戦いを挑む!アカデミー賞受賞したのにDVDスルーになってしまって不思議だなあ〜と思っていたけども内容を見てちょっと納得。事前情報をほとんど仕入れずにデンゼルが剛速球をぶっ込んできたという評のみしか知らなかったけど、開始早々怒涛の会話とその会話の様子をひたすら追っていくカメラ、場所が変わってもひとときたりとも途切れない会話を見て、ああこれは戯曲原作の映画なのねと気づく。1950年代のピッツバーグ、そこにある当たり前の、今になってこそわかる差別という風景。これは劇場にかけても宣伝のしようがなさそう……。おまけに物語のほぼ全てを担うデンゼルの家族の成り行きは、あたたかい感動の涙なんて寄せ付けないほどに、厳しいまでに人間的だ。

デンゼルは真面目な労働者でゴミ収集の仕事をしているけど、出世してゴミ収集車のドライバーを目指している。勤務態度も真面目だ。彼の体は一家を養っているという誇りで満ちている。白人と黒人のリーグが分かれていたことによる野球人生の挫折で開けられた穴を埋めるかのようの彼の家族への態度の、社会と家族の裏腹さ。今は時代が変わったのだと、それはとてもいいことじゃないかと言われても、変わる前の時代に生きた彼の傷が塞がるわけではない。前に進めた人の人生だけが人生みたいに言われるけれど、そうじゃない生き方だって愛すべき人生だとデンゼルは言う。外に出ようとする者を閉じ込め、侵入者を拒むためにフェンスは建てられる。それは理不尽な仕打ちから自分の正気を守るためのたとえ無意味と言われても必要な境界なのだ。誰にでも、そのボーダーラインは生きるためのロジックとして心中に持っている。そのロジックを可視化して建設したいという欲求が出てしまうまでになるという追い詰められ方は今ある現実と同じくらいに過去も未来も排除して、そうでもしなければ正気を保つのは難しいということで、そして現在は、国が丸ごとそんな意思表示をしてしまうほどに、もう来るところまで来てしまっている。

省みてみれば私だって、手を伸ばせばいつの間にか建ててしまったフェンスに触れてしまうかもしれないから、怖くてただうつむいて、現実を見ないようにしている。

【ローガン】どこにでもある祈りのことば

アメリカにおける『シェーン』の重要性は本当に何なん?というくらいあれもシェーンだしこれもシェーン!でもいいよ、だってシェーンはやっぱすごいもん……というやつ。

「彼女はいつからmute(声を出せない)なの?」「生まれた時から」というやりとりはもちろんウルヴァリンにとってはmutantであることを訊ねられたことと同義で、しかしそれは社会の周縁に追いやられた人々は常に変種でありそして沈黙を強いられていることをわたしたちに教える。もちろん、ローガンだってずっとそうだったのだ。そして常に人を傷つけるばかりの人生は終わりのときに「こんな感じ」が初めてわかる。不死の彼がずっと分からなくて戸惑っていた、見るばかりで失うばかりだった苦しみの向こう側。

ローラは旅路で出会った少年のような祈りの言葉を知らないけれど、彼女には『シェーン』の言葉が祈りとしてすでにもたらされ、そこには祝福と贖罪とそのどちらもが含まれて、エンディングで「不正をはたらく者は誰もが彼を不正な者にさせ、正しい行いをする者は誰もが彼を正しい者にさせ、汚れた者は誰もが彼を汚れた者にさせてしまう」と歌われたキリストのポートレイトとシェーンの言葉は寸分違いなく彼女の中に吸い込まれていく。100年前に描かれたフィクションの西部劇が聖なる言葉として記憶される営みの姿は、劇中で流通している『X-MEN』のコミックが虐げられた者たちに楽園のありかを教えたことでなおさらハッキリと、わたしたちが信じるに値するものは何か、何によって希望を抱くことができるようになるのかを断言している。レイヤーの違う2つのフィクションがわたしたちとローラを当たり前のようにつなげる。驚くべきヒーロー映画だと思う。

絶望することはある。でも、この人生が幸福でないとは誰にも言うことはできないと、そのためにいつだって爪は振るわれていたのだ。

【スウィート17モンスター】イタいを笑う大人の残酷

美女と野獣』でした。
私って本当はすごいのに正当に評価されないわ!と若さゆえの(そしてそれは本当は若さゆえのではないということに年をとって気づいて絶望するのだ)モヤモヤとうまくいかなさをもてあましている女の子がただただ周りにそのエネルギーをぶつけて見下す……。そしてその見下しぶりは身に覚えがありすぎて悶絶する。『ゴーストワールド』を例に出すまでもなく、〝イタい〟女の子はサブカルおとなにとってはイタ気持ちいい娯楽なのである(〝イタい〟男の子は直視するのが怖いので童貞とかそういうところに逃げがち)(童貞は女のせいにできるからね)。そして『ゴーストワールド』と違って2017年には彼女を迎えるバスさえ来ない。これはきつい。

ネイディーンは文科系のアジア人(金持ち)をバカにして「これって差別かしら?」と失礼なことを言った後に言い訳をして許してもらおうとしたりする。こういう描写をイタい女の子のリアリティとして描くことはちょっと卑怯なんじゃないかとアジア人の私は思う。『ももいろそらを』の、女子高生にゲイ男性を「アナルファッカー」と露悪的に呼ばせているシーンに似た違和感を覚える。あれはひどかったね。そして結末は美女と野獣だ。ん〜〜〜〜〜〜〜〜。

ただ、描出されるセリフやシチュエーションひとつひとつはとてもディテールに富んでリアリティに満ち、特にメンターたる教師のしなやかさは古典的な導き手のありようを見事にアップデートしている。ジョックスの兄が何も失っていないと思う彼女の傲慢も、母娘の「相手に人格があるなんて思いもよらない」無神経も、母親が最後に示す勇気も、見られてよかったシーンはたくさんある。けれど私はこのネイディーンのイタさを微笑ましくて懐かしいと思って見ることはできない。だって実際、ネイディーンみたいないま17歳の女の子は、多分実際、いま苦しい。

いろいろモヤモヤした部分は多いけど、「どいてよ」っつってちゃんとどく、という当たり前のシーンには、どうしようもなく羨ましい気持ちを覚えてしまう。

【午後8時の訪問者】死んだ人が生きる場所

「死んだ人はわたしたちのなかで生きている」という言葉からは腐臭が漂っているが、そのにおいが何に由来するかと言えばもちろん死体である。どうしようもない死という現象をどうにかしてポジティブな色に糊塗したいという欲求をわたしたちは抑えきれない。でも本当は、見たくない死、わたしたちのせいで生じてしまった死にこそ、この言葉は用いるべきではないのか?

事件が起こるまでに描かれる主人公の行動のバランスは絶妙に普通でリアルで、そしてそれでも研ぎ澄まされた責任感は普通の人のそれではないという予感を覚えさせる。わたしたちの中にいる英雄が英雄として現れる瞬間。それは『サンドラの週末』と同じだ。その瞬間は、まさしく「わたしたちのなかで生きる死人」によってもたらされる。
愛する人の死を「わたしたちのなかで生きる死人」にするのはなんとも容易い。痛みを癒すもの儀式を多くの人が必要とする。名もなき人の死は、なかったことにされる。名もないままでよしとする。つまり死とは人間の主観における明確なダブルスタンダードなのだ。この言葉が漂わせる腐ったにおいの原因はそこにもある。

あまり効率がいいとは言えない、医者の仕事をしながらの捜査はミステリとしてのカタルシスを観客にもたらすことはないが(過失ではなく慎重にその快楽は排除されている)、患者に話を聞き、死んでしまった女性の写真をさまざまな人に見せてその名前を求めるうちに、彼女は事件の真実ではなくもっとむき出しのわたしたちが普段見ないようにしている〝真実〟を見つけ出し、そしてあろうことかその〝真実〟と一体化し始める。ラスト、事件の真実と向き合う彼女はもはや犯人やその夜起こったことを見る目を持たない。なぜなら死んだ人は彼女のなかで生きているからだ。

生きることは過酷で、〝真実〟を見つめて生きることはもはや何かの刑罰のように自身を傷つける。
でも、わたしたちのせいで死んだ人を自身のなかで生きることを認めることでしか、わたしたちは後悔を弔うことはできない。

【美女と野獣】よくわかる野獣の初恋

メインテーマで「Beuty and the Beast」〜♪と歌うところが丁寧に「美女と野獣」といちいち字幕が出ていてちょっと面白かった。まあその通りだし字幕としてはめっちゃ誠実だけれども!調べてみたら吹き替えだと「愛の扉」〜♪になるみたい。閉じられた隔絶されたまるで舞台のような世界で歌を歌い踊る楽しい映画!という昔のスタジオ映画っぽい風情はむしろ新鮮で、今これを万人向けにやれるのはディズニーだけなんだろうなあとオープニングからすでに圧倒。

しかしオリジナルのアニメ版でも思ってたけど、やっぱりベルの内面がよくわからない。他人の内面がよくわかる必要なんてないかもしれないけどこれは恋愛のお話なのでやっぱりよくわからないと多少は困る。野獣はわかる。野獣が自分のありのまま的な部分を見た上で初めて優しくしてくれた美人に初恋しちゃうのはわかる。

この違和感はどこから来るのかと思ったらたぶん「呪いの解除=お話のゴール」が、野獣が真実の愛を自らの中に見出せるかどうかなのに、それが中盤の終わりに既に達成されちゃって、あとはベル次第みたいなところになっちゃってるからなんだな。でも最後までベルの愛の中身っていうのはようわからん。ベルはようわからんように描かれている。おそらくそれはオリジナルのアニメが作られた時代のプリンセス像とベルの描かれるべきキャラクターとがイマイチうまく噛み合ってないからだろう。

ベルは読書好きの女の子で変わり者だが、それ以外はどこまでも庇護を受けるべき客体であり、お話自体がガストンのベルに向ける視点を内面化しちゃってるからなんだな。だってガストンの語るベルの幸せな未来と、人間に戻った王子とのダンスから想像されるこれからの未来と、あんま変わんない気がするし。それでいいのかエマ・ワトソン

そんな中で愛の輝きをもっとも体現していたのはル・フゥで、彼は最後までガストンを自分なりのやり方で愛そうとする。愛は賢いものではないし、過ちさえ受け入れてしまう弱さがあるし、しかしそんな愛を抱えたままでも正しい人間でいることはできるということをル・フゥは示している。好きだった人を諦めても、それはいつか過去になるっていう冷たいけれど希望に満ちた事実も含めて。

【レゴ(R)バットマン ムービー】ロブスターでは癒せない

最高すぎる映画こと「レゴ(R)ムービー」のスピンオフ的な続編という理解でいいのだろうか?
煙や水飛沫までレゴで表現していた前作と比べるとレゴっぷりはやや後退しているように見える。そしてそのぶん「レゴが!動いてる!」というワクワク感も後退気味。
出てくる敵はヴォルデモートにサウロンともう絶対勝てない感じがするが、このオールスター感はとってもよかった。前作に続いてレゴ(R)ならではって感じだ。

バットマンの孤独、失うくらいならもう何もいらないとして他者を拒絶する彼が家族をもう一度得ることができるのかっていう話なんだけど、そのくだりがけっこう冗長で、(言いたいことはわかったから早く次のシーン行ってくれんかな)となる。ロビンとの擬似親子的な関係性よりもやっぱりジョーカーとのライバル兼喧嘩友達兼遠距離恋愛の恋人的な距離感の方が、この年のわたしにはグッとくる。感情や絆ではなくわたしがわたしとしてわたしを把握するために必要な他者とのつながり。あとヘビピエロ(こわい)。好きな映画は「ザ・エージェント」。

字幕版の上映の時間が合わずに吹き替え版で鑑賞したけど、久々に子安の声を聞けたのでなんかよかった。いい声優。ギャグもテンポよくていい感じ。ただ小島よしおは本当に良くない。演技は全然問題ないんだけど、「SING」の時の斉藤さんの炎上どころではないやりすぎぶり、上映前の「ワンダーウーマン」の予告のクソぶりと合わさってワーナーの映画担当の日本の人は本当にダメなんだなと怒りよりも先に脱力が来る。誰も喜ばないし、真面目な小島よしおだって要求されたことをプロとしてやっただけだろう。もういい加減にしてほしい。

女子プロレスに関する私なりの偽史<全女史観・長与史観>と差別について

女子プロレスは誰のものだろうか?
もちろん、女子プロレスラーのものだ。
でも、おそらく、そうでない時代があった。

ある作家が差別の話をするときに小人プロレスの話を持ち出して人権団体の圧力のせいで彼らが職を失ったという謎の主張をして「?」となったのだが、そこに付帯して発生したやりとりで少し気づいたことがあったのでちょっと書く。

女子プロレスと小人プロレスは、つまりは全女というパッケージは、見世物だったのだ。
もちろん試合をするレスラー当人は、純然たるプロ意識を持って、素晴らしい試合をやろうとしていたはずだし、実際素晴らしい試合をやっていた。ルチャの動きはプロレスをはじめて見る人にも驚きと感動を与えるが、おそらくそれと同じかあるいはそれ以上の説得力を小人プロレスは持っている。人間が当然してしまう反射行動を膨大な練習量と無茶とも言える反復で封じ、〝見たことない〟動きをする。巨大で筋骨隆々なものを愛でる方向性とはまた別の、しかしそれは本質的には同じだ。弱き存在であるただの人、でないもの。人ならざるもの、超越者、あるいは神がリングの上には現出する。ジャイアント馬場の威容が神を連想させるのと同じように、腕を胸の前で組んだままロープに投げ出され、しかし何事もなかったかのようにいつの間にか両足で着地をして戦いを続ける。あんなこと、普通の人間にできるはずがない!

女子プロレスは見世物だ。それは女子レスラーのしていたことが見世物だったわけではなく、その興行を仕切る人たちと、それを見る観客の視線がその場をそう規定していたからだ。戦う女。いがみ合う女。美しくない女。それは社会の規範から外れた異形であり、滑稽な、いずれは消えてなくなるまぼろしだった。今でもこういう視線を女子プロレスに投げかける人はいっぱいいる。女子プロレスをはじめてみた男性から「強くて美人なんて、かなわないな〜」とかクソみてえに中身のない感想を聞かされることはたびたびあるが、女性に対しては基本的にかなう前提で世界を見ているんだなこの人は、とわかってとてもいい。

しかし長与千種の自我は観客や松永兄弟の思惑などいとも簡単に薙ぎはらうほどの異形だった。
ソフトボール部で下級生に慕われた長与は人を惹きつける天賦の才とそれを分析し使いこなす賢明さをリングの上で大いに発揮した。その自我はタッグパートナーであるライオネス飛鳥を真っ先に喰いちぎり、しかし命名されえぬ抑圧の中でかろうじて息をしていた少女たちに希望を与えた。「あのひとは、わたしだ!」
『1985年のクラッシュギャルズ』の記述を信じるのなら、長与千種はそもそも女子プロレスのマーケットの様相すら変えてしまった。客席の少女たちは「わたしたちのための女子プロレスが理解できない」他の観客を追い出し、リングを彼女たちの祭壇にしてしまった。松永兄弟が作り出した、若い女性たちをいがみ合わせて成立させていた見世物小屋は、長与千種の劇場になってしまった。
長与千種が立ち上げた団体であるマーベラスの興行を観戦するのはそういった、長与の定義した全女の残滓がきらめいてとてもエキサイティングな体験なのだけれど、長与慣れしていないわたしにはかなりずっしり尻に来る。大仁田の興行に出てミックスドタッグ電流爆破しているのを見ると大仁田の自我と化学反応を起こして(大仁田もまたすごいとしか言いようがないほどすごい)(詳しい人から「猪木と同質の何か」と説明されて合点がいった)お酒を飲んでもいないのに謎の酩酊が引き起こされる。いっかい見てみるのがオススメだよ。

お金が儲かるのなら松永兄弟はまあいいだろうと長与千種と交渉し、そして興行的に不要とされる小人プロレスを切った、と考えるのはフロントの思惑を想像するプロレス脳でしかないのだけれど、おそらくそこそこ正しい。いくつかの記事を読むと、同時に「怪我や死亡のリスク」についても言及されているものが見つかり、確かに、<ある種の疾患を持つ人をリングに上げて事故が起こった時の責任>に対する世間の反応を考えた時に、フロントが及び腰になるのも納得がいく。プロレスに怪我やアクシデントはつきものとはいえ、そういった事態が起こらないようにフロントが全力で対策をするのは当然であろうと思うし、プロレスが興行である以上、そのリスクは負えません、カードは組めません、と判断するのも理解できる。しかし。

たとえば「小人プロレスは身体的に生命の危険がほかの選手より大きい」という言説を論理的だとして許容した場合はどうなるか。「女性は子供を産むための体の作りをしているのでプロレスをやるには身体的に生命の危険が大きい」という言説を許容することもあり得るだろう。そして、「アジア人はその他の人種と比べて骨格的に弱い体つきをしているので身体的に生命の危険が大きい」という言説もありうる。どのプロレスの分野でも怪我人は常に出ているのだから、「身体的に生命の危険が大きい」という主張を裏付ける証拠には事欠かない。ここには論理的な主張などない。境界線をどこに書くかの恣意的な判断があるだけだ。差別とはそういうことなのだろう。差別をしない人間などいない。ただ、自分がどういう境界線に蓋然性を感じているかに気づく瞬間を増やさなければいけないのは、確かなことだ。
重大な怪我をしたり亡くなってしまう選手は今でもいるのに、そいつらは健常者だからリングに上がれるのか、と問われれば、何も言えない。それは差別だ。だからいわゆる障害者プロレスと言われる幾つかの団体の興行は時間が許す限り行きたいと思っている。応援したいと思っている。プロレスファンの実現できるバリアフリーとは、そういうことだと思うから。

単なるいちプロレスファンでしかないわたしはプロレスの試合を見に行って応援し、いい試合には歓声をあげ、つまらない試合には嘆息する。でも、わたしは常に、どんな時でも、プロレスの側に立つつもりだ。たとえばプロレスが弱きものを抑圧するように振る舞うならば(っていうか振る舞ってんだけど)(……)、なんか悲しくなってきたけど、でも、わたしは時にプロレスのなかの不誠実を攻撃するかもしれないけど、常にプロレスの味方でありたい。プロレスがリングの上に立つ勇気ある人のものであり続けることを心から願う。