おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

【怪盗グルーのミニオン大脱走】黄色が薄いと薄味に

薄い、とにかく薄い。シリーズ3作目でキャラクターが多すぎてしかもお話をメインプロットと多すぎるサブプロットにハッキリ分けてしまってお話が進まないし新しいキャラクターが激薄。そして何より致命的なのがグルーシリーズのキモっていうかすべてであるミニオンがメインのお話に絡まなくてミニオンに関しては予告編で見た以上の何かはない。他の部分、メインのストーリーやグルーのギャグが面白ければ構わないんだけどそうじゃないからとにかくミニオンが欲しくなる。

家族の愛とか、ひとつ小さくでも大人になることのメタファーとか、ディズニーの得意分野に正攻法で挑んでもやっぱり同質の感動は得られない……という無情な現実を実感するばかりだ。

あと敵の悪党は80年代に活躍した元子役という設定なのだけど、マドンナとかマイケルジャクソンとかをBGMにしながらネオンサインっぽいフォントでノリノリでアクションする。たぶんクリエイターの世代なんだろうけどしかしこの80年代リスペクトみたいなのってもうそこかしこでここ2年くらい流行ってる気がするのでいささか食傷気味、というか今後同じ感じのやつやるなら相当うまく入れ込まないと「またか……」ってなること請け合いなので、「自分の好きだったもの、好きなものをやるんだ!」っていう気持ちもただ出すだけじゃダメなんだなあ。マーケットって厳しい。

【カーズ クロスロード】年老いる車

まさかのテーマかぶり。『ローガン』とかと。アメリカどんだけ老いてるんだ。日本の方が明らかに老いているのに。もっとやばい状況の国があるんだぞ。

『カーズ』シリーズは作品と商品展開が妙な関係にある、というか、作品の内容自体(1作目は完全にノスタルジーが主題)と<ディズニーでは貴重な男児向けマーチャンダイズに適したキャラクター>って部分の齟齬がすごくて、作品にもその齟齬が影を落としているように思える。スピーディで大騒ぎなレースシーンと次世代カーの出現とマックイーンの葛藤と、生き物が全て車であるっていういまいちハッキリしない世界観。なぜ新チャンピオンが早いかというと、「エンジン性能と空力がすごい」みたいなことなのかなと映像を見て判断するけど、結末まで見るとそんな感じでもなさそうだし。そもそも前作でF1カーと対決してたし。マックイーンの師匠であるハドソンよりも年上の車が出てくるけどピンピンしてる。ということはボイスアクターの死のみが作品内の車の死をもたらす?謎は深まるばかりである。テーマにも共感できるし、脚本の深みはそのテーマを描ききっているけど、別のところでつまずいてしまう。

寂れた街ラジエータースプリングスで展開される前々作、世界中のいろんな街を飛び回る前作と、なんだかんだで人工的な風景の中で走っていた車たちは今回は海辺や泥、森の中など自然の中を楽しげに駆け回る。あまりによくできすぎてて実写と見紛うばかりで逆に深みを損なっていた前作までの背景と比べると、柔らかで汚れのうかびあがる景色は陰影ある車の美しさを際立たせている。人生の目標であるレースへと向かう物語なのはわかるけど、これだけ車の生きる自然の美しさを丹念に描いてくれるのなら、広がる世界の姿をもっと見せてほしかったなあと思う。

【ハクソー・リッジ】日本人は勘定に入れません

デズモンドさんの初デートが超ッッッ嫌悪感でもう全然好きになれない。映画見てても女の方見てニヤニヤして話しかけてくる(まあこのころのニュース映画は家でテレビ見る感覚なんだろうけど)のも、いきなりキスして「いや、キスしたいのかと思って」、山登り手伝って登れないってヘルプ求めたら「助けてあげるけど代わりにキスね」……!そもそも結構な大怪我した人を助けて病院に運んだ先で好みのタイプの女性がいたら速攻ロックオンしてナンパすんのもスッゲーやだ。献血をダシにする感じも最高にやだ。そしてメルギブがこの辺をわざとやってるのかどうかわからなくて怖い。でも変態をこの年まで貫くってことはこういうことなのかな。アンドリュー・ガーフィールドの「ニヤニヤ+自分の感情にしか興味ない」っていうのは映画を通してデズモンドの行動原理として機能しているので自覚的にやってんのかなあとは思うけど最終的には武器を持たずに多くの米兵を助けたこの実在の兵士の偉さ!というまとめ方なのでなんとも言えない。でも、デズモンドさんがなぜこんな偉業を成し遂げられたか?っていうか偉業なのか?みたいな話の納得のさせ方に「やべーやつだったから」という手段を選んだのならすごいことだと思う。プロだ。

デズモンドさんがやべーやつなせいで<(米兵の命=助ける=1)+(崖の上に日本人が!=撃つ=1)=命の勘定+2=感動無限大>みたいな残虐算数の成立も「デズモンドさんがやべーからしょうがねえか……」ってなるし。この算数が成立してしまう状況を作ってしまうものこそ戦争であり戦争の恐ろしさってことならやっぱり戦争は良くない。どう考えても良くない。

沖縄戦の資料映像で、非戦闘員が隠れる壕に火炎放射っていうものを小学生の頃けっこう見たけど、アメリカ側からすれば苦いう状況だったんだからしょうがないじゃん、ということなのかもしれないけど、やっぱり私はそこに思いを馳せたい。偉い人の切腹でお茶を濁されたからなおさら。

感動大作じゃなくて狂気の器としての戦争とそこで輝きを得る狂人の話だ。そして映画はそれを美しく描く権利を持っていることは、否定してはならない。そこをどう評価するかが、観客に委ねられている限りは。

The Winner Takes It All〜プロレスは勝者総取りの時代へ〜

新日本プロレスG1LA大会が大人気となんと地上波のテレビで言っていた。しかもフジテレビとかそのへん。どうせ現地の特派員がプロレス好きなんだろうと思ったがそれでもすごい。もう完全にアメリカのプロレスファンにとっては新日=日本のプロレスだ。だってネットで定額で生配信してるから。WWE Networkをお手本にしたおかげで過去の藤波前田戦とかも見られるし。そりゃ加入する。

新日=日本のプロレス説としての傍証の一つに先日のスマックダウンのPPVでの解説、中邑真輔初登場の際の解説で「キングオブストロングスタイルの中邑真輔がいよいよ登場です」「ふむ、そもそもストロングスタイルとはなんなんですJBL?」「一言で言ってしまえば、猪木、三沢、小橋のようなスタイルのことだね」と言ってたことがある。大ズッコケする私。

かねてから薄々気づいてはいたのだが、どうやらアメリカのプロレスファンは四天王プロレスのことをストロングスタイルだと思ってるっぽい。後楽園に来ている海外からのお客さんと思しき人と話していると「やっぱコバシだよね」「ミサワはすごいよ」とこの二人の名前は必ず出てくる。あとブル中野

げに恐ろしきは猪木のワードパワー。ストロングスタイルという言葉を発明したおかげで、それはあまりにも海外でもなじみやすいわかりやすさを持つがゆえに、なんと全日の遺伝子が生み出した四天王プロレスの功績すら簒奪してしまったのである。アメリカのファンの間では〝日本のプロレス=新日本プロレス=ハードなスタイルのプロレス=ストロングスタイル(=四天王プロレス)〟という図式が成立してしまっている。しかしこの勘違いを正すすべはない。なぜなら海外に発信しているプロレス団体は唯一の勝者である新日本プロレスだけだ(と言っていいだろう)からだ。

勝者総取りの時代である。WWEがECWなど他のあらゆる団体を駆逐し、吸収し自らの一部として選手だけでなくそれらの試合映像をWWE Networkで自社コンテンツとして発信しているように、日本の90年代以降のプロレスの功績は新日本が全て所有している状態が発生している。今までも強い団体や流行っているジャンルに選手が流れることは多々あったが、プロレスでもっとも大切とも言える文脈までもがメディア的強者のもとに流出していってしまっている。

まあ新日本頑張ってるしいいんじゃない?と思うかもしれない。しかし勝者は常に明日の敗者になりうる。日本国内では女子プロレスは混戦状態と言えるが、海外に発信しているという意味では知名度ではスターダムが圧倒的に勝者だ。しかしスターダムにレギュラー参戦していた外国人選手はトニ・ストームを始め軒並み、今度開催されるメイ・ヤング・クラシックのトーナメントに出場し、挙げ句の果てには宝城カイリ移籍である。

そんな視点でWWEを見てみると、今の、ドラフト後のスマックダウンなんかは明らかに日本のプロレスのスタイルを意識しているのだよね……。そして女子部門の圧倒的な華やかさ。ペイジはいなくなったけど、明らかにディーバ革命は成功を収めている。
猪木の夢見た、グローバルな戦いのフィールドとプロレスの真の強さを証明する世界は、今この時代に到来しつつあるのではないかなあ、としみじみ思うのである。

【ローマ法王になる日まで】信仰in俗世

思いもよらずかなり面白かった。

宗教がらみの事件なりなんなりが起きると、「宗教って人を幸せにするためにあるのに、変なの!」みたいなことを言う人がいて、その言葉の自分勝手さに脱力するのだけど(「結婚って幸せになるためにするのに」くらいのバカバカしさ)、まあ現ローマ法王となったホルヘの人生には苦難しかないしだから神もわりと口数が少ない。幸せはない。生きる苦しみと困難がある。信仰に生きた人というよりは過酷な現実と信仰の距離を常に測り続けてきたような人生で、信仰に殉ずる人の人生を一歩引いて見守っているような彼のアルゼンチン独裁政権時代での孤独で静かな戦いの様子が描かれる。

まずこの独裁軍事政権のやばさが目を引く。やばい。軍と警察がやりたい放題をするというのはこういうことでありやばい。そして独裁政権の言葉遣いが決して今の日本で見られないものではないという点もやばい。稲田朋美の選挙応援演説のやばさが集約されているやばさ。いろんなホラー映画とか歴史映画とかで暴力や拷問の描写は見てきたけど、〝不当逮捕ののち収容所に送るからその前に予防接種ねと言って麻酔薬を注射し軍の輸送機に乗せて飛んでいる機体後部のハッチから生きたままボーッとした状態の人間を海に投げ落とす〟という一滴も血が流れないのに空前絶後感のあるやばさは、フリーハンドの暴力と人間の知恵の行きつく先の一つの形ってくらいにやばい。

そんな中で権力と良心の狭間を漂うようにアルゼンチン管区長としての職務を全うし疲弊するホルヘ。神学を修めて神についてはほとんどの信徒より詳しいはずなのに、とある場所で出会ったいち信徒の祈りに彼は救われ、神との再会を果たす。このシーンの厳かさと神秘性よ。俗世と接近し、現実的解決策を常に模索してきた末に、ミサを執り行うことが最大にして唯一の彼のなしうるアグレッシブな活動の一つとして描かれ、しかしそれが弱いものの側に立つもっとも強い意思表示になりうるのは、現実と良心のあいだにもまたキリストはいるからだ。

というかローマ法王っていうのはそんくらいの位置付けの人がなるんだよっていうメッセージも感じる。ある程度の政治性への接近が最低限必要というか。なんてったって出てくる枢機卿が漫画とかで出てくる富豪くらいに俗っぽい。デカイ十字架のネックレスで成金っぽさを倍増。たぶんちゃんとしたアイテムなんだろうけど。
そこのバランスとして、カトリックじゃなくても大いに共感でき、カッコいいのがホルヘのおそらくローマ法王として特異なところで、エンディングで道を歩いてるだけのモノクロ映像はミュージックビデオかよとすら思う。

しかし、こういう映画に対して「私は無宗教なのでよくわからないのですが」とキリスト教やらイスラム教やらが大きな位置を占める国の特殊事情みたいな形で理解を切り離そうとする人がいるけど、古事記に書いてある国産みの神話の神々の子孫が象徴(戦前はいちばん偉い人)としてなんかいろいろ言ってる国の宗教ぶりとあんまり変わんない、というか自覚がないぶんたちが悪いんではないかと思う。天皇尊いっていう感覚は、まったくもって完全に信仰だよ。

【フェンス】人のせいで苦しむ人に人のせいにするな、なんて言えるものか

スーサイド・スクワッド』の人非人長官を演じたヴィオラ・デイヴィス人非人デンゼル・ワシントンに戦いを挑む!アカデミー賞受賞したのにDVDスルーになってしまって不思議だなあ〜と思っていたけども内容を見てちょっと納得。事前情報をほとんど仕入れずにデンゼルが剛速球をぶっ込んできたという評のみしか知らなかったけど、開始早々怒涛の会話とその会話の様子をひたすら追っていくカメラ、場所が変わってもひとときたりとも途切れない会話を見て、ああこれは戯曲原作の映画なのねと気づく。1950年代のピッツバーグ、そこにある当たり前の、今になってこそわかる差別という風景。これは劇場にかけても宣伝のしようがなさそう……。おまけに物語のほぼ全てを担うデンゼルの家族の成り行きは、あたたかい感動の涙なんて寄せ付けないほどに、厳しいまでに人間的だ。

デンゼルは真面目な労働者でゴミ収集の仕事をしているけど、出世してゴミ収集車のドライバーを目指している。勤務態度も真面目だ。彼の体は一家を養っているという誇りで満ちている。白人と黒人のリーグが分かれていたことによる野球人生の挫折で開けられた穴を埋めるかのようの彼の家族への態度の、社会と家族の裏腹さ。今は時代が変わったのだと、それはとてもいいことじゃないかと言われても、変わる前の時代に生きた彼の傷が塞がるわけではない。前に進めた人の人生だけが人生みたいに言われるけれど、そうじゃない生き方だって愛すべき人生だとデンゼルは言う。外に出ようとする者を閉じ込め、侵入者を拒むためにフェンスは建てられる。それは理不尽な仕打ちから自分の正気を守るためのたとえ無意味と言われても必要な境界なのだ。誰にでも、そのボーダーラインは生きるためのロジックとして心中に持っている。そのロジックを可視化して建設したいという欲求が出てしまうまでになるという追い詰められ方は今ある現実と同じくらいに過去も未来も排除して、そうでもしなければ正気を保つのは難しいということで、そして現在は、国が丸ごとそんな意思表示をしてしまうほどに、もう来るところまで来てしまっている。

省みてみれば私だって、手を伸ばせばいつの間にか建ててしまったフェンスに触れてしまうかもしれないから、怖くてただうつむいて、現実を見ないようにしている。

【ローガン】どこにでもある祈りのことば

アメリカにおける『シェーン』の重要性は本当に何なん?というくらいあれもシェーンだしこれもシェーン!でもいいよ、だってシェーンはやっぱすごいもん……というやつ。

「彼女はいつからmute(声を出せない)なの?」「生まれた時から」というやりとりはもちろんウルヴァリンにとってはmutantであることを訊ねられたことと同義で、しかしそれは社会の周縁に追いやられた人々は常に変種でありそして沈黙を強いられていることをわたしたちに教える。もちろん、ローガンだってずっとそうだったのだ。そして常に人を傷つけるばかりの人生は終わりのときに「こんな感じ」が初めてわかる。不死の彼がずっと分からなくて戸惑っていた、見るばかりで失うばかりだった苦しみの向こう側。

ローラは旅路で出会った少年のような祈りの言葉を知らないけれど、彼女には『シェーン』の言葉が祈りとしてすでにもたらされ、そこには祝福と贖罪とそのどちらもが含まれて、エンディングで「不正をはたらく者は誰もが彼を不正な者にさせ、正しい行いをする者は誰もが彼を正しい者にさせ、汚れた者は誰もが彼を汚れた者にさせてしまう」と歌われたキリストのポートレイトとシェーンの言葉は寸分違いなく彼女の中に吸い込まれていく。100年前に描かれたフィクションの西部劇が聖なる言葉として記憶される営みの姿は、劇中で流通している『X-MEN』のコミックが虐げられた者たちに楽園のありかを教えたことでなおさらハッキリと、わたしたちが信じるに値するものは何か、何によって希望を抱くことができるようになるのかを断言している。レイヤーの違う2つのフィクションがわたしたちとローラを当たり前のようにつなげる。驚くべきヒーロー映画だと思う。

絶望することはある。でも、この人生が幸福でないとは誰にも言うことはできないと、そのためにいつだって爪は振るわれていたのだ。