おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

【ロープ 戦場の生命線】なわはもっとも古い人間の道具の一つ

これは面白かった。かなり見るべき映画。

戦場となった国の難民が利用する井戸に死体がハマっちゃって(誰かが投げ入れたのかもと示唆されるけど本当のことはわからない)このままでは水が汚染されて飲めなくなるので死体をロープで引き上げるけど……切れた!

ということで水を供給するNGO職員のベニチオ・デル・トロとかロビン・ウィリアムスとかがロープを求めて東奔西走する一日を描く。たった一本のロープのために、でもそのたった一本のロープが、ここでは全然、全然見つからないのだ。

ロープっつったら安部公房の「なわ」だよね。安部公房は人間の原始的な道具がむしろ人間の行動を規定し始め、人の意思あるいは存在と等価になる瞬間をいろいろ書いているけど、ここでNGO職員たちは様々な用途で使われ、人間の意思によって変容する縄たちの姿を(そして職員たちの意思通りには動いてくれない、戦争によって生み出された現実の姿を)目撃する。

よく「戦争の真実」とかいう言い方をして、「現実はもっと過酷だ」「脳内お花畑」とかいろいろなことを言って冷笑的な態度を取る人がいるし、まあこの映画で描かれている国連軍の振る舞いとそれによって生じるベニチオさんたちの忸怩たる思いは「偽善的行為の導く現実」ってな話かもしれないし、でもねえ。それに対する反論って何かなって思ったんだけど、結局のところ世界は複雑すぎるっていうことへの理解の問題なのかなって気がしてきた。それは縄の振る舞いにも還元されうることで、一つの役割を果たした縄が、その同じ縄が、別の役割を果たすことだって大いにあり得る、というかそれこそ当たり前のこと。悪い状況がそのままの姿で良きものにもなる。その矛盾に、しかし縄ではない人間は耐えられない。でも、安部公房の世界に迷い込む必要だってないよ。「砂の女」とか尋常じゃなくこええし。

まあいろいろ言ってみたけど、牛迂回問答とかかなりユーモラスで面白かったです。ラストシーンも素晴らしかった。道具以外の解決策をもたらされ、身を委ねることもできるし、人の意思を超えたところに何かがあると信じることもできる。だから人は縄とは違うし、NGOの人だってパーフェクト・デイを突き進むのだ。

レイジングループをクリアしたけどやっぱりゲームはいちばん饒舌

評判がいいのでケムコの「レイジングループ」をやったよ。もっとゲームやったり本読んだりしないとなあと思っています。

面白かったです。こんなブログでゲームの説明をされても困ると思うからしないけど、テキストアドベンチャーかつバッドエンドの記憶を持っている系のやつ。「ひぐらしのなく頃に」と似てる。基本一本道だし。

でもチャートがむちゃくちゃ便利でビックリした。自分でセーブとかしなくていい。読んだところはいつでも遡れるし選べるしオートセーブだし、大量のセーブデータとクイックセーブを駆使してた頃が原始時代のようだ。

一人称の感じは西尾維新を彷彿とさせる語り口なんだけど、恋愛観というか他人に対する期待の持ち方が過剰じゃなかったり変に卑屈にならなかったりで「私向けじゃねえな」と思わずに最後まで読むことができた。書いてる人はちゃんと大人なんだなと思いました。ちゃんと別れて、ちゃんと別の人と付き合って、みたいな感覚はやっぱ安心するよ。

唯一、フラッシュ動画がどうとかのギャグはちょっとよくわかんなかったけど、いちばん難しい&合う合わないがいちばん出るところなのでそれは仕方ない。
人狼の儀式が始まるまではそこそこ退屈だったけど(これはアドベンチャーゲームの性質上仕方ないこと)、人が死んでから、どうなるんだろうドキドキで読み進めるモチベーションをずっと維持し続けられたし。

とはいえクリア後には謎が一切残らないのはいいんだか悪いんだかって感じはある。説明すればするほど「そんなん本当にできんの?」って部分は増えてきちゃうし、不思議な事象にも論理を適用しようとすると、せっかくミステリアスな世界もどんどん現実の亜種みたいになっちゃう。でも、設定の矛盾(実現可能性は置いておいても論理的な穴)を潰していくにはそれしかないのかなあ。テキストノベルはその意味でいちばん饒舌になっちゃう媒体かもしれない。

【ぼくの名前はズッキーニ】戯画化されたリアルすごすぎ問題

びっくりしたのはズッキーニが教室で初めて自己紹介をした場面。ズッキーニはお母さんが呼んでくれるズッキーニという愛称で呼んでほしいので本名を紹介する先生にこっそりと「ズッキーニだよ……」と耳打ちする。この囁くような声とはにかみのかたまりのような空気に、「こっっ、子供!」とおののいた。これは完全に子供のやるリアルなやつ。

ズッキーニの目の周りはえらく青いしものを掴むためてはビヨーンと長いし遠景のミニチュアに至ってはむちゃくちゃ単純な作りでたとえば「KUBO」なんかと比べると冗談みたいな感じなんだけど、だからこそズッキーニ達の挙措は完全に現実っぽく見えてくる。

映像作品は映像作品になる時点で撮る作為と演じる作為でフィルターされてるわけで「素人の子供を使ったのでリアルです」みたいなのは完全にアホなんだけど、このズッキーニのマジ子供ぶりはまさしくまさしくという感じ。

お話のリアルさの方向性も全く一緒で、恵まれない子供、過酷な養育施設!みたいなのはお話をお話として成立させるための作為っすねとでも言いたげに、ズッキーニが出会った楽しかった日々、子供同士で手をつないだ日々のスケッチをあくまで彼のもの、誰にも奪われないものとして描いている。

60分と短いランタイムなのだけど、これをちゃんと劇場にかけてくれたのは本当ありがとう。

【パディントン2】こんにちは、ヒュー・グラントです

意外とリアルなクマがベン・ウィショーの声で喋りつつロンドンに出没する、普通に考えると怖いけど基本的にみんなが幸せになるとってもいい映画ことパディントン

前作よりもこっちの方が好きです。映画は変化や成長を描くものだーって言われるけど、それって「ひとは変わらなければいけない」ってこと?と思って時々もやもやする。ドラマは変化によって生まれる(変化がないと何も起こっていないと人間の脳は判断してつまらない判定を下す)のでまあ商品としてのドラマ作りにおいてはしょうがないっていうのはわかるし、パディントンでも明確な変化は囚人と刑務所にきちんと起こっている。あとはパディントンがいる・いないの街の人々の変化かな。

けれど、大悪役でノリノリのヒュー・グラントは最後までヒュー・グラントのままなので、最後まで映画を見て私はとっても嬉しくなってしまった。ああヒュー・グラント。いろいろ悩みが多そうなヒュー・グラントが、私は役者なんですよ、と嬉しそうに画面の中であっち行ったりこっち行ったりするのを見るだけで、私はパディントンのおかげで幸せになった街の人たちのように幸せになってしまう。

変わっても、変わらなくてもいい。演じることが好きならそれを続ければいいし、ママレードジャムサンドが美味しいと思うなら、それを食べればいい。

同時に、孤独にロンドンにやってきたパディントンの振る舞いに全ての善きものを負わせているような罪悪感も覚えて、だからパディントンが最後まで自分自身の願いを貫くさまは、絶対に否定できないものとして成就を見守りたくもなる。

【デトロイト】すべてに絶望し、そして最後に辿りつく

ユースチス!あんた悪い子になって!とウィル・ポールターにドキドキ。子役の印象が強いからウィル・ポールターが悪いことばっかりやってると余計にいたたまれない気持ちになる。

デトロイト暴動の始まりから火に包まれる町とその火が及んでいなかったはずのモーテルでの悲惨な出来事、そしてその悲惨な出来事がどのように裁かれて巻き込まれた人はどうなったかを描く映画なんだけど、主要人物が何人かいるのでドラマとして没頭するのは結構難しい。それがビグローの誠実さなのかそれとも躊躇なのかはわからない。

結局真相は謎の部分もあるので映画で起こる出来事はその場にいるリアリティと切迫感、おそれる人のおそれた瞬間の震え、や暴力の推進力に足払いされて転げ落ちていく引き金の重さ、や論理を引き裂くその場の判断、をこそ大事にされていて、人の感情の動きや「なぜ?」には立ち入らない。それは実在の事件を扱う上での誠実さだろう。

なんだけど一方で、ラリーの結末、私はすごく好きだし、映画を善きものとする意志を感じたのだけれど、そのせいで映画の輪郭が緩んでしまっているようにも感じた。そこだけドラマになっているのだよね。映画って難しい。

世界にいる一部の人に手ひどく裏切られた人が、世界すべてから目を背けずにはいられなくなってしまい、どこにも行けなくなってしまい、ただとしつきだけを運ぶ人になってしまう光景を、きちんと優しく撫でてあげたあの結末は、やっぱり必要だと思うし、ありがたいんだよね。

【ジオストーム】久々に見たよ警告灯が点滅する中での殴り合い

まあ予告編を見て抱いた印象そのものの映画だ。そういう意味では誠実だ。それにしたって古風だろ。

いろいろ言いたいことはあるけど、雷の直撃を受けただけで大爆発するスタジアムってマイケル・ベイでもやらないのでは?やるか。

ディザスターものだと思っていたら陰謀ものっぽいプロットだったけどそっちはそっちでコロコロコミックぐらいの感じ。気象災害を克服した後のお話っていうのはちょっと意外だった。アメリカは本当ダメですね。

自爆装置の警報が鳴り響く中で警告灯がチカチカしてて殴り合うシーンがちょっとしたタイムトリップだったのでそればっかり覚えています。

【オレの獲物はビン・ラディン】アメリカはグライダーでやってくる

これはすごい。『帰ってきたヒトラー』を見たときびっくりしたけど、これも同質別種のびっくりで腰抜かした。

まずニコラス・ケイジ。すぐに爆笑するニコラス・ケイジ。っていうか全てはニコラス・ケイジニコラス・ケイジの映画は馬鹿にしてもいいっていう雰囲気が今はちょっとあってその結果があのニコラスうまい棒と配布撤回の流れを生み出していたんだけど、なぜニコラス・ケイジにはおかしみが生まれてしまうのかといったらそれはつまり世界がニコラス・ケイジを受容する準備ができていなかったからなのだ。準備ができないまま全てをぶつけてきたニコラス・ケイジに対して進化の遅れた人類はもはやなすすべはない。

まあニコラス・ケイジの話は置いておいてもすごい映画だった。主人公は腎臓を病んだ建設作業員ですぐにイエスを幻視する。いや、イエスっつーか神様と呼んでいるんだけどそのへん混濁。「ヒルビリー・エレジー」ではケンタッキー州のいわゆるキリスト教を信じる人たち、トランプの支持層になったと思われる人たちも実はあんま教会行ってないし聖書も読んでないということが明かされているけどなんかそんな世界観をビジュアルにしたらこんなイエス兼神が出来上がりそうな感じ。つまり啓示は常に自分のためにあり自分の世界観に合わせた神を登場させてなんか言わせる。言われることが単純に自分の内なる願いだったら面倒じゃないんだろうけど、自分の現状への忸怩たる思いとか純粋な正義感とかも混じってるのでその願いはかなり困難なものになってしまう。独りよがりで自分勝手だけど底抜けに明るくて道行く人にもすぐ話しかけてすぐ仲良くなって好かれちゃうし相手のことも好きになる。目的のためなら国境なんか特に何も考えずにまたぐし、武器だって電話でカジュアルに買う。

アメリカの中のはた迷惑な男の人の話だと思ってい見ていたらこのニコラス・ケイジがアメリカそのものの姿だと気づいてびっくりする。傍若無人でまあ狂人と言って差し支えない彼の姿ははっきり言ってアメリカがやっていること、考えていることとイコールなのである。まぼろしのようなキリストの衝動に突き動かされ、正義のために他人の権利を軽々と侵害し、しかしその明るさと親しみやすさで大勢の人に好かれる。

意図せずして恐ろしいことがニコラスのニコラスぢからに暴露されてしまった恐ろしい映画だ。