おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

【オレの獲物はビン・ラディン】アメリカはグライダーでやってくる

これはすごい。『帰ってきたヒトラー』を見たときびっくりしたけど、これも同質別種のびっくりで腰抜かした。

まずニコラス・ケイジ。すぐに爆笑するニコラス・ケイジ。っていうか全てはニコラス・ケイジニコラス・ケイジの映画は馬鹿にしてもいいっていう雰囲気が今はちょっとあってその結果があのニコラスうまい棒と配布撤回の流れを生み出していたんだけど、なぜニコラス・ケイジにはおかしみが生まれてしまうのかといったらそれはつまり世界がニコラス・ケイジを受容する準備ができていなかったからなのだ。準備ができないまま全てをぶつけてきたニコラス・ケイジに対して進化の遅れた人類はもはやなすすべはない。

まあニコラス・ケイジの話は置いておいてもすごい映画だった。主人公は腎臓を病んだ建設作業員ですぐにイエスを幻視する。いや、イエスっつーか神様と呼んでいるんだけどそのへん混濁。「ヒルビリー・エレジー」ではケンタッキー州のいわゆるキリスト教を信じる人たち、トランプの支持層になったと思われる人たちも実はあんま教会行ってないし聖書も読んでないということが明かされているけどなんかそんな世界観をビジュアルにしたらこんなイエス兼神が出来上がりそうな感じ。つまり啓示は常に自分のためにあり自分の世界観に合わせた神を登場させてなんか言わせる。言われることが単純に自分の内なる願いだったら面倒じゃないんだろうけど、自分の現状への忸怩たる思いとか純粋な正義感とかも混じってるのでその願いはかなり困難なものになってしまう。独りよがりで自分勝手だけど底抜けに明るくて道行く人にもすぐ話しかけてすぐ仲良くなって好かれちゃうし相手のことも好きになる。目的のためなら国境なんか特に何も考えずにまたぐし、武器だって電話でカジュアルに買う。

アメリカの中のはた迷惑な男の人の話だと思ってい見ていたらこのニコラス・ケイジがアメリカそのものの姿だと気づいてびっくりする。傍若無人でまあ狂人と言って差し支えない彼の姿ははっきり言ってアメリカがやっていること、考えていることとイコールなのである。まぼろしのようなキリストの衝動に突き動かされ、正義のために他人の権利を軽々と侵害し、しかしその明るさと親しみやすさで大勢の人に好かれる。

意図せずして恐ろしいことがニコラスのニコラスぢからに暴露されてしまった恐ろしい映画だ。

【否定と肯定】正しき者よ沈黙せよ

今の時代に見るべき!という評判を聞いて見に行ったところもあるけど予想よりもかなりカジュアルな内容で意表をつかれた。複雑な現実を丁寧に一枚の織物にしましたという社会派映画ではなく、今この時代に立ち現れている問題できちんと打倒すべきものを措定して立ち向かい方、立ち向かう難しさを描く活劇的な映画。しかもbased on real eventだから露骨なピンチは予告だけに止められる。多分そのピンチが実際に起こったら負けだから。それだけ現実がピンチって事なんだよね。その焦燥感にゾッとした。

裁判の被告は歴史学者のリップシュタットなんだけども、リップシュタットは法廷戦略でノー証言を貫くしアウシュビッツの生存者も証言を止められてモヤモヤ。実質的な主役は弁護をしつつアーヴィングの矛盾を直接暴くランプトンなのだけど、これはこれでまた現実の姿であるのよね。戦い方を知り、正しくあり、過去の悲惨な出来事に心を寄せることができる人にしかアーヴィングのように自覚なき煽動者(彼にとって物的証拠や証言を曲解して自分の都合のいいような歴史を作り出しそれをネタに講演会で笑いを誘うのはシンプルにコミュニケーションの手段なのだ)に立ち向かうことはできないのだが、圧倒的な数的不利にどうすんのって話。

映画としての面白さ以上に、ただ困難な現実を突きつけられたような気がした。日本はここの議論にすらたどり着いてないからね。

【ミスター・ロン】薄幸美女に幸多かれ

リアリティがないお話を指してまあこれはファンタジーだからって擁護する向きがあるけどそれはファンタジーに失礼だよねってよく思う。ファンタジーほどたいへんなものはない。
だからこの映画をファンタジーっていうのはちょっと違うよね。

台湾の殺し屋が日本での任務に失敗してフクロにされて流れ流れて寂れた町へ。台湾人の母親(シャブ中)を持つ少年とは会話ができるので少年と交流しながら地元の人にも助けられて牛肉麺の屋台をはじめて大成功!母親のシャブも抜き家族みたいな穏やかな生活を始めるけどもちろん破綻の日はいつかくるっす。という話。

描きたいもののために嘘を重ねる(映さなくていいところは映さないっていうのも嘘のつき方のひとつのバリエーションだし)のは映画ではとっても大事なことなんだけど、その嘘を気づかせないためにはそれ以外の描かれている部分のディテールをきっちり整えなきゃいけないんだけどそれがないのでもう全部が書き割りの世界に見えてしまうのが大問題。

たとえば卓球のシーン。ロンは卓球が下手でサーブの際におおげさに台にぶつかってしまうくらい下手なんだけどサーブ権交代の時にふっつうにひょいっとラケットで相手にボールを打って渡す。おいおい。ほかにも廃屋っぽい家に侵入するとふつうに水が出る。綺麗な水が水道から。おいおい。そのせいで、ロンを歓迎していろいろ手助けしてくれるご近所さんが「大道具さんとか衣装さんといった裏方さんがお話を進めるために出てきて手助けをしている」みたいに見える。もちろん役者さんじゃなくて演出と構成のせいで。これは困ったなあ。シャブ中女って言って少年の母親を忌避してるけど、町にシャブの売人がいるのは看過するんかいっていう。

でもロケ地はぜんぶすごいよかった。クロダの廃屋?と呼ばれている廃屋群はちょっと異世界感も覚えるアトモスフィアで目が離せなかった。あっでもお寺の境内と日光東照宮はどうかと思います。

あとぜんぶのシーンがだいたい二割くらい多い気がした。お母さんの回想シーンをなんで最初から最後までやるんだ。薄幸美人が好きだというのも魅力的だというのもわかる、でも、だったらせめてその人を最後まできちんと愛してあげてよと、こういう裏社会映画もそろそろ新しくなったほうがわたしはワクワクするのにな、と思いました。

 

【キングスマン ゴールデンサークル】いらない奴らは即排除

前作は「面白いけどまあ……」くらいの感じで今ひとつ乗れなかったので(お金持ち爆発とアナルセックスでクライマックスが特に)、私はこちらの方が好きです。
いらないキャラクターとか時間を割きたくない人物に対しては容赦なく脚本で排除するという潔さはいろんなヒーロー映画やキャラクター映画への回答って感じもするし、とてもよい。しかも緻密な排除じゃなくて「今必要なくなった!はい退場」みたいなわかりやすさ。おかげですごく「今何を楽しめばいいのか」がはっきりしてくる。
前作の教会ほどのシーンはなかったけど、アクションは全体的にリッチ。ポピーランドの乱闘シーンは外と中でめまぐるしく背景とギミックが変わってゲームみたいな多彩さが嬉しい。
しかしチャニング・テイタムは主演映画じゃないとあんまり活躍しない契約でもあんのかってくらいほんのりな活躍だけど、「ローガン・ラッキー」感はすごかったです。「カントリー・ロード」がちょいちょい流れるんだけど、すでに失われた故郷への郷愁という感じがして、アメリカも大概追い詰められてんなあとお尻のあたりがもぞもぞしました。
犬の扱いが結構私の苦手な犬好き感があってそこはすごく嫌でした。とっても大事な存在だけど同じ犬種なら代替可能みたいな扱いってけっきょくは存在としての唯一性を認めていないってことやんか。

WRESTLE KINGDOM 12 内藤哲也といくつものセレンディピティ

セレンディピティという言葉がある。

探し求めていたものとは別の思いもかけぬ幸運に出会うこと、あるいはそれを可能にする洞察力のことを指す造語であるが、内藤哲也のプロレス人生は、この五年間は、セレンディピティの連続だった。

彼がそもそも求めていた夢は、新日本プロレスに入ってプロレスラーになること、20代でIWGPのベルトを巻くこと。東京ドームのメインに立つこと。重度のプオタだった内藤哲也の探す幸福は、想像力に欠けて面白味のない目標とともにあった。

何より致命的だったのは、その目標は内藤自身の特性にあまり合致してはいなかったということだ。観客の反応を読めないままでもたつく試合展開、ベビーフェイス的な顔立ちとちょいちょい漏れ聞こえる女性関係のあれこれ、幼さを感じさせるストレートパーマとそれに相応しいあやふやなマイク。なりたい自分とそのための自分への演出の方向性、そして自分への理解すべてがちぐはぐで、本人は一生懸命なのに「いったいなにがしたいんだ?」と誰しもが言い、たとえばNEVERのベルトを獲ったときなんかもろに石井に突っ込まれていた。

そして悲しいかな、その想像力に欠ける夢は、あまりにも強靭なフィジカルと精神的なタフネスを兼ね備えたオカダにとっては、夢ではなく単なる現実だった。丁寧に真摯に練習を重ね、周囲の期待に応え続けていればそれは当たり前のものとして彼の周りにやってくるたぐいの。

内藤は歩みたかった道を諦めたとき、思いもよらない幸福を見つけ出した。歩みたかった道を歩めなかった人々、それはたぶん世の中にいきるほとんどの人たちがそうだからだ。想像力に欠ける夢しか見られず、もちろんそんな夢を叶えることができないでみじめな現実を生きるしかない、大多数の私たち。だから一昨年の春の両国ですべてが転倒し、内藤の背後にはたくさんの失われた夢が瓦礫のように積もっていった。失われた夢の代わりに、内藤の存在が夢となったのだ。

正直、怪我から復帰したあとの内藤への声援とブーイングと熱狂の変遷を思うと、観客とはなんなのだろう、新日本プロレスとはなんなのだろうと腹の底に悪寒が渦巻くこともある。あのブーイングはひとつの課題として今でも私の記憶の片隅にいつまでも残り続けている。内藤、あの情けなくみっともない男になら何を言ってもいいのだと加虐の喜びに満ち、目につくあらゆるものに嘲笑を浴びせかける、そういう人たちが会場に詰めかけていた。内藤のふがいなさに腹をたてていた私もまた、彼らの共犯であるような気すらした。いや、おそらく私は共犯なのだ。あのブーイングを内藤のストーリーのひとつにするなら、その主体がファンであることにも言及しなければ不完全だろう。

ドームのあの夜、イッテンヨンの彼が待ち望んだその瞬間、彼の耳に届いたのは自分の両肩が招き寄せたスリーカウントだった。見えたのはマットではなく天井。雨のように……、オカダの降らせたオカダドルの雨の代わりに内藤には観客の声援が降っていた、それでも彼の望んだ夢は叶わなかった。

勝ってほしかったなと水道橋駅に向かう途中の橋の上でしみじみ思った。望んだもののひとつを手に入れてほしかったなと。それからすぐに思い直した。

もう内藤にとってはイッテンヨンの勝利なんてそんなものいらないと投げ捨てて構わないものになっていればいい。ただ勝者として立ち続けるしかないオカダを尻目に、誰も見つけたことがないような輝けるものをその手に握りしめていればいい。内藤の望んだ夢を生き続けるオカダの苦しみもまた、とてつもなく大きく、誰にも理解できないものだ。孤独な強者、共感され得ない強さの象徴というキャラクターを選んだオカダの一年は、共感が何よりも正しい現代においてはかなり難しいチャレンジになるだろう。

そして、あの時投げかけられたブーイングを考えれば、内藤はいつまでも失われた夢という瓦礫を背に負っている必要もない。セレンディピティ、思いがけぬ幸福。そしてそれを見つける洞察力。観客の前にその強さを示し、強さの証をその手にしてみせるのがプロレスラーのひとつの生き方なら、誰も知らない人生の驚くような宝を見つけ出し定義して肉体の力で言語化するのもまたプロレスラーにしかできない特権なのだ。

そういえば、まだ内藤がヒールになる前、サムライTVの「新日本プロレス大作戦」で、古巣のアニマル浜口道場を本間とともに訪れた内藤はアニマル浜口にこう言われていた。「金の雨じゃなく、宝の雨を降らせればいい」と。考えてみれば、このアニマル浜口の言葉は予言のようにその後の内藤の道行きを表していたのだ。

年始のご挨拶と2017年ベスト10映画

明けましておめでとうございます。

めでたいかどうかはちょっとかなり怪しいですし、2018年はやばそうな予感がプンプンしますが、生きていくだけでプロテストになると信じてやっていきたいです。 2017年よかった映画を思い出せるだけベスト10的にメモります。良かった順とかではなく思い出した順です。

スパイダーマン ホームカミング

 えっこれをマーベルのヒーロー映画でやれちゃうの!?という腰抜かし体験。面白すぎるし繊細なドラマを繊細なまま描くということを可能にしたトム・ホランドの圧倒的な描写力にただただ負けた感。

午後8時の訪問者

死を語る際に必ず漏れてくる人間の欺瞞をどう拭い去るか。目の前の死を引き受けることでまっすぐに見つめることを可能にした峻厳な語り口。私は卑怯だ、そうだなその通りだな、そしてそんな言い訳は、もう飲み込んで無いものとして振る舞え、と言われた気がした。

沈黙

公開後の日本での反応も含めて、スコセッシの信仰の切実さとこの国の宿痾との対比を見た思い。伝道者の傲慢と排他的な者たちの暴虐は相対化されることなくどちらも罪として、弱き者にのみ襲いかかる理不尽。その構造すべてが神を求める心性の説明となっている。

ザ・コンサルタント

見えていない私たちの見えている世界は見えていない部分のほんの一部でしかなく、見えていない世界に溢れた必然が見えている世界には奇跡として現出している、という発見。抽象芸術も、数字の秘密も、あの人のちからも。

人生はシネマティック!

人為的で人工的な物語を愛する私たち、そうではない私の人生、でも映画を見るその意味。女性が映画を見つけ、映画が女性を見つけるその理由は戦争とたくさんの死。悲しいあらわれ方をしたそれはしかし、書く意志、書かねばならぬほとんど天命にも似た衝動によって、美しい論理とカットとなってもう一度あらわれる。

・ムーンライト

生きるってことは、つねに泣き出しそうでいることなんだよ、とでも言いたげな月の明かり。恋は美しい、だからこの人たちをどこまでも美しく撮るんだよ。その強固な意志はやはり文学的である。むちゃくちゃマッチョな人を見ると、この人もプロテインちゃんと飲んでるんだよなあと思うようになりました。

ローガン

ここにはなにもない、ただ老いだけがある。老いは悪いことではない、しかし老いが死を恐れて牙を剥いたとき、あなたたちは逃げ出しなさい、ここにいてはいけない。それを老いた者が語る勇気に頭を垂れる。

・ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦

テロは無意味だ、メッセージを伝えたいなら暴力で訴えてはならない。ふむ、それは正論だ、その論理は守るべきものだ。でもね、あなたたちは私たちがこうするまで助けてくれなかった。それもまた、事実なのだ。ただただ申し訳ない気持ちになる。

・皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ

ヒーロー映画っていうものがよくわからなかったけどこの映画一本見れば我々がヒーロー映画に何を求めるのかが一目瞭然。物語を生きることはできずとも、物語の教えてくれたことを実践することは意味がある、その二つは全然、全然違うことなのだ。

哭声

聖書を書くんだ!弟子ならば、福音書を書くんだ!というナ・ホンジンの筆致は現代の韓国でイエスの復活を待ち望むことの難しさとそれでも信仰を告白したるでという熱い気持ちに溢れている。次の公会議が待ち遠しいね。

「私は、ダニエル・ブレイク」も入れたかった。食糧配給所のスチールラック越しに見えるあのシーン。今年はたくさん書きたいです。何でもかんでも。

【スターウォーズ 最後のジェダイ】まあ大体ガンダムで喩えられる

一言で言うとZガンダムだった。くさくさしたアムロにムカムカするカミーユとくさくさしたルークにムカムカするレイは完全に一致。その上、フォースの処理は完全にニュータイプのそれと同じだった。ニュータイプっていうのは戦争の道具じゃないよ〜すべての人が進化する可能性であり、分かり合える希望なんだよ〜っていうのを結局、戦争の道具としてしか考えられない視聴者たちやスポンサーを苦々しく思う富野はカミーユをぶっ壊してアニメを終わらせたけど、ライアン・ジョンソンは富野ほどやさぐれてないしディズニーはディズニーでちゃんとしてるので穏便にフォースの見え方(フォースの定義自体はそもそもあんまり変わってないのであくまで見え方)を変えた。

巷間に流布してたジェダイ血統主義云々に関して、別にジェダイ血統主義じゃないよっていうのはその通りなんだけど、プリクウェルのおかげさまでアナキンの出生からルーク・レイアにたどり着くまでの神話的な成り行きを語ってしまったがために父と子の相克と継承という部分がクローズアップされてなんかそういう風に見えてしまったし、やっぱり見ている人もそういう話が好きなので、その揺り戻しとしてのレイのあり方っていうのはすごく私はいいなあっと思いました。これって「ウッソはシャアの息子?だから優れたニュータイプなの?」とか言いたがるガノタから、かけたつもりのない梯子も容赦なく外してくれる、優しい富野がいつもしてることだよね。

その意味で、『フォースの覚醒』で試みられていた神話からの脱却(キャンベル的ストーリーテリングからの離脱)というのは継続して行われているような気がしたなあ。神話っていうのは遡れば遡るほど家系図の羅列になっていくものなので。ジェダイ血統主義というよりも、続編ものに観客が期待してしまう血統主義の脱却ではあるんじゃないかな。その方向性や姿勢自体は支持するし、例えばローズへのクソしょーもない批判はそれ自体がローズの必要性を語ってしまっているので、どんどんやってくれ〜と思う。ちなみに今やガンダムは映像を管理する人たちが「富野のものじゃないよ」っていう態度を隠そうともしなくなり始めててお金払うのもう嫌だよね。ルーカスは初っ端から権利を持つやり方をやってて偉いし、ガンダム作りたくなくても作らされてた富野とスターウォーズ作りたくて作らせてもらえなくなってもういいやってなったルーカスと結構対称的ですね。

でも映画全体はやっぱりなんか底が抜けている感があるので手放しで褒めるのもちょっとためらわれる。レジスタンスの逃走劇のズンドコ感とか、みるみるうちに残りレジスタンスの数が減っていく悲しさとか、ファースト・オーダーはファースト・オーダーでどうなるん大丈夫?とか……。ただただカオスに転んでいく世界の姿は、まあわれわれの生きる現実を鑑みると仕方のないことなのかもしれないけど……。