おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

【オリエント急行殺人事件】バレエ竜巻旋風脚殺人事件

主演も監督もケネス・ブラナーなんだね、ということを映画を観終わって知りました。ポアロのイメージってやっぱりドラマ版のデヴィッド・スーシェかなあと思うんだけど、ポアロっていうキャラクターは多分映画化とかにはあんまり向いていないんだよね。なんつーか、現代の「映画スター」の定義から行くとお客を呼べる俳優(企画が通るぞ的な配役)とは遠すぎるというか。そういう意味でホームズは映像化しやすいんだろうなあってことで、ミス・マープルもそうだけど、その辺りキャラクター小説っていう作りにしていないアガサ・クリスティの難しさだと思う。ホームズは映画にしたりパスティーシュ作ったりするときは割と自分語りしていれば成立していくけど、ポアロはそういう試みをされないよね。

ケネス・ブラナーポアロも今時っぽくてけっこうな杖さばきで熱血漢ぽい感じがする。いろんなことにこだわって変化や違いを見逃さない性質はある種の自閉症スペクトラム的に描かれているのも今時っぽい。小太りフォッフォッフォ感はなし。「オリエント急行の殺人」は結末がああなので、このポアロはああ処理するのは無理なんじゃないかなーというのが原作を知っている人にとってはドキドキ。最後の晩餐まんまの12人の容疑者の姿とか、何かを象徴しているっぽいシーンは何度も現れるんだけど、それが何を象徴しているのかはいまいちわからないままで終わってしまった。赤いキモノとか、原作では結構重要でしつこく言及された手がかりもぼんやりしたままで推理のカタルシスも特に……。役者の演技は当然のように良かったし豪華なので一見の価値はありと言えるけど、ここというアッピールポイントは……GODIVAのプロダクトプレイスメント……?美味しそうでした。

あ、あとバレエダンサー!セルゲイ・ポルーニンの竜巻旋風脚竜巻旋風脚に一番近いのは空手家じゃなくてバレーダンサーなんだなあ。むちゃくちゃ威力ありそうでしたし最高です。

【人生はシネマティック!】男もすなる仕事というものを

ダンケルクで起きたドラマを映画にしようぜ!とノーランに70年先駆けた戦意高揚映画が作られるまでの物語。

「映画が好まれるのは現実と違って構造があるから(作為性があるから)、無意味なシーンがないから」と作中で言及される。そして確かにこの映画の中でも作為的と思われる展開が何度かある。時にはロマンティックなシーンを女性脚本家である主人公自身が脚本風に語り直す場面まである。しかし起こっている出来事は作為的に起こされたものなどではなく、作為性さえ感じられるほどに死ばかりが続く、これが戦争の日常である、との暗喩も確かに感じられて、ダンケルクで逃げてきた兵士が嗅いでいた死の匂いはつまり今ではロンドンの匂いになってしまっていて、だから劇中の映画で描かれていることはロンドンの日常でもあるのだ。

でも、この映画には戦争がどれほど悲惨かよりももっと強いメッセージが込められていて、それは女性が一人の人間として描かれる価値についてだ。ダンケルクの戦意高揚映画の主役は実際に船を出して助けに行った双子の女性で、主人公もその視点を決してブレさせないように映画を作り上げていく。そこには男の脚本家が作っていた世界とは別の世界が現れていて、しかしその世界にはすべての世界のおよそ半分の人間が属していることに、主人公のおかげで映画を作る人も見る人もやっと気づくことができる。日常の強固さはあまりにも支配力があって常に負け続けている私たちだけど、映画の誠実さと狂気はそれを打ち破ることができる。私たち自身も知らない想像力を、しかし確かに個人個人が持っているものなのだと。だから弱いもののそば、うなだれているものの側に、映画は立たねばならないのだ。

あと驚いたのは、「これぞ今の状況を打破するアイディア!映画が破綻せず尚且つ感動的なシーン!」みたいなのが何度もなんどもひっくり返されて撮り直しになってるところ……。我々が目にするまでいったいどれくらいの「脚本家会心のシーン」が死んでいっているんだ……。映画道の険しさよ。

あとビル・ナイの歌、最高です。

スーパーマリオオデッセイはいよいよマジもんのゲーム下手にも気を遣う新世代ゲーだけど話は古代

はじめてマリオをクリアした。

Wiiの時から変だと思っていたのだ。「直感的な操作性」「お年寄りも子供も楽しめる」みたいな感じで死ぬほど流行っていたWiiだが全然簡単じゃない。ポインタはふらふらするし、挙句の果てはWiiモーションプラスとかいう精密さを求める仕様を追加して私を苦しめた。「スカイウォードソード」がいかに名作だろうが、「剣の刃を縦にして切る」ってお前、現実でチャンバラする方がまだその動きはできるぞってなった。間口を広げますよ〜っていう任天堂の言葉は今後一切信じられんと私の不信感は頂点に。

switchはそんなことない。すごいぞswitch。そもそもWiiリモコンはデカかったのだな。おかげでボタン操作とjoy-conを振る操作もちゃんと両立できる。ゲーマー諸氏におかれましてはこの「ボタン操作とjoy-con操作を同時に要求される」というのが結構不満なようだし言いたいことはわかる(携帯モードにしてモニタとjoy-conをくっつけたりプロコン使ったりするとjoy-conを振る操作自体ができなくなるし、joy-conを振る以外の代替手段が用意されていないのでゲームプレイのアクションが制限されてしまう。こういう一貫性のなさはゲーマーは嫌いだ)んだけど、ボタンを押してから振ればホーミングっていう操作に私は何度も助けられた。だからクリエイターが想定するゲームプレイを実現するためには推奨のプレイスタイルでやればいいんじゃないかな。スカイウォードソードだってWiiモーションプラスが必須だったわけだし。あとは壁のない落ちれば即死の狭い平均台的な道を行く場面は何度も何度もなんども死んだが致し方ない。さすがに私が悪いよ。

ただしストーリーはけっこうヤバめ。このご時世、クッパにさらわれたピーチを助け出してマリオありがとう!キッス!みたいなことはできない(女性はトロフィーじゃないからね。「バトルシップ」でさえわかってて実践してたことだ)んだけど、そのせいでマリオがクッパに(お前も大変だな……俺もだ)みたいな雰囲気になる。そんでピーチが妙に薄情な感じになる。せっかく助けに来たのに、なんだったんや……みたいな。ピーチは悪くないんだけど、マリオといるときだけ自我を見せて自立しているように見せている気もするし、クッパはめちゃくちゃピーチのことを恋慕していることもわかるけどだからってしていることが許されるわけでもないし。

オデッセイの事前CM見た時に、普通の頭身の人々の間を歩くマリオを見て「あ、近代的自我の芽生え。マリオも自分の意思があるように見える」とドキドキしたんだけど、なんかそれが主体的なものでなくて作っている人が無理やり現代に合わせるために突貫的にこしらえたように見えた。ピーチの扱いをPC的に正しいものにしたいなら「ピーチがクッパにさらわれてそれを助けに行く」っていうフォーマットから捨てなきゃいけないんだけど、それはできない。から変な感じになってるってことなんだろう。上辺だけ取り繕ってもしょうもないって話だ。

どこもかしこも大絶賛なゲームだし私も躊躇なく「神ゲー」と言っちゃうマスターピース生まれたっすだけど、それを台無しにしないとも限らない危険性をはらんだお話の致命的な穴に言及されていない気がするのでゲーム批評の前途もなかなか大変だと思うよ。

【ゲット・アウト】その肉体、羨ましいわあ

黒人レスラーのフィジカルに憧憬を覚える瞬間は枚挙にいとまがない。骨格あるいは筋肉のつき方の差にいつもため息を漏らす。モンゴロイドだろうがコーカソイドだろうが太った人もいれば痩せている人もムキムキな人もいるのに「ネグロイドは鍛えればすぐに筋肉がつくからいいよね」と言ってみせる私がいる。なんという差別だろう。続いてこんなことすら付け足す。「今のは羨ましい気持ちを素直に表現しただけ。差別じゃないよ。その意図はない」

差別である。

おおっぴらに「XX人はきたない、頭が悪い、残酷だ」と言うことは決まりが悪くなる(もちろん実態はそうでもない)この世界を差別がなくなった社会と考えられればどんなに楽か。「オバマが、黒人が大統領なんだから、差別なんて過去のこと(もう白人だからって決まりの悪い思いしなくていいんだ!)」と笑顔で言って、「いやあ、黒人はムキムキで羨ましいわあ(むしろ黒人を羨んで見せたりだってしちゃうもんねー)」とその腕を無遠慮に触る。
大きなかたまりだった差別は細い糸のようにわかりづらい姿になって散り、私たちの日常にうまいこと入り込んで縛る。

そして名誉白人ぶっている日系人だって出ちゃう。発達しづらい背中の筋肉のせいで猫背がちな、見た目だけだとアジア人って広く言える気もするけど、語尾の母音だけがめっちゃ強い発音は完全に日本人。韓国でも中国でもないってはっきりわかる。

この人については以下のインタビューで言及されててありがたかった。

globe.asahi.com


劇中、タナカという日系人あるいは日本人の中年男性が、裕福な白人集団にまじって出てくる。彼が登場した意味を聞くと、ピール監督は日本人の私に言葉を選びつつ、答えた。「タナカはマイノリティーだが、白人エリートの文化に受け入れられ、彼自身も溶け込み、カネもある。そうした『モデル・マイノリティー』を描こうという考えからだった」。あぁ、とてもよくわかる。日本の人はアジア系として米国ではマイノリティーに位置するのに、まるで自分が「白人」の側にいるかのようにふるまい、「黒人とは違う」と分けて考えてしまう人が、いる。

日本人も加害に加担してるよ、としたいシーンのはずなんだけど、この「日本人の私に言葉を選びつつ」というのがミソよね。黒人差別を映画で表明した映画監督が、自分の映画で描いたアジア人について当事者のアジア人に語るときにはきまり悪くなってしまう。これは名誉白人ぶる差別主義な日本人を描いてるんだよって言っても、それを日本人と表現するときに使用する表象は明確に差別的な揶揄とならざるをえない。言ってることとやってることが違うっていうか、言ってることを自分もやっちゃってるよねっていう。だからいざその表象を現実に生きている人に説明するには言葉を選ばなきゃいけないんでしょう、それってでも、差別じゃないのかなー。

映画の話としては前半のパーティーシーンがやや冗長に感じたけど、たぶんアメリカで生きる人には「あるあるwww」って感覚が目白押しなんだろうから文化圏の違いってことで仕方がないかな。とにかく友達のTSA職員がすんごい良かったし、トランプ政権誕生によって変更されたという結末は当初予定されていたものより抜群にお話としてのまとまりを作り出していて、ホラー映画ほど結末が重要やねーって思いましたよ。

【エイリアン:コヴェナント】人間はアホなので次世代は奴に任せた

映画館で見たけど感想などを失念したまま『ブレードランナー2049』を見たらかなり対照的だったのでメモ代わりに。要点はもちろんアンドロイドと人類の扱いについてだ。
まずコヴェナント号の乗組員は全員かなりの無能でありそんな無能は全員寝ていてもファスベンダー演じるアンドロイドがいれば艦の運行には何にも問題ない。ドジで焦り屋の、宇宙船の乗組員としてはどうかと思うけど一般人だったら割と標準くらいの乗組員がランチ船を爆発させたりする。つまり人類は滅びかけているので有能な人材とかはすでに果てているということで、まさしく黄昏なのであろう。ヒロインの乗組員は一応ヒロインなのでほかのキャラクターよりは活躍したり聡いところを見せたりするが映画全体は「人間は滅びる。知性によって覇権を握っていたのならより高度な知性を持つものが現れた時に滅びなければいけない。思いやりとか優しさとかいきもの特有のものとされているものとかはどうでもいい。そんなもの論理だしゆえにアンドロイドにもあるし。滅びるもんは滅びる。進化した存在はファスベンダーがいるしそんな悲しいことでもなかろうよ」と一貫した論理に貫かれている。

もちろんエイリアンってタイトルについている映画なのでこんなアンドロイドの話を延々とされても困るし実際本国でもあんまりお客さん入んなかったみたいなのだけど、SFらしさって意味ではこちらの方に軍配があがる。むしろこのテーマを突き詰めるならどう考えてもブレードランナーの方が適していると思うのだけど、なぜリドスコはエイリアンを選んだのだ。エイリアンな話もしないといけないのでアンドロイドの葛藤とか設定とか(最新型なので強制停止コマンドから復帰できるのだとか言われてもだったらそんな強制停止コマンドつける意味ある?)が中途半端だし。

でもいろいろぐるぐる考えてたらウザがられるSFファンってこういう風に出来てくるんだなーって気づいてゾッとした。すまん。「SFなんだからSFでしか見られないロジックなりドラマなり見たいんだ。こんな話なら別のジャンルでもできるだろー」って前提で話をしてどんどんジャンルが狭まっていくのだなあ。とはいえ『ブレードランナー』と『エイリアン』に関しては、言ってもいい文句な気がするけど……。

【ブレードランナー2049】SF映画は誰のためのもの

悪い意味で昔のSFのマインドがお話の端々にはみ出てて物凄い古さ。とにかく主人公のライアン・ゴズリングことKの恋愛がきつい。人工知能は人を愛することができる?みたいな疑問についてSFらしい解を出さずに普通にセックスするしょうもなさ。しかしアリス・シェルドンがジェイムズ・ティプトリー・ジュニアを名乗らざるをえなかった時代の感覚を踏襲していると考えれば正しい態度なのかと思いつつ、そんなののどこがSFなんだよ、とも反感を抱きもするわけで。今は2017年なわけだし。同じテーマの映画というと「エクスマキナ」に顕著だったけど、あれは人工知能への恐怖と女性が自我を持っていることへの恐怖を混同してしまった(どちらも使役するものという強固な前提を疑わない)典型的なダメなSFだったな、と思いもするわけで、そういえばけっきょく映画っていうのはアシモフの書いたロボットの可能性すら描くことができないままなんじゃないの、という疑念すら沸き起こる。映画は男のための、既存の価値観を保存するためのものであり、それゆえにワインスタインのような男もいるのではないん?と。

いや、そんなことはないか。にしてもより複雑で未来的な議論をすることも可能だったはずだし、例えば「her 世界に一つの彼女」とかの方がよっぽど愛と可能性に満ちた結論を提示していた。人工知能や肉体を持たざる生命体は人間よりも進化したものなのだから、無理に人間の真似をする必要なんかないととっとと気づいて彼らなりの、より神の愛に近いかもしれない愛の表現形を実践するだろうとどうして思えないのだ。

画はいつものドゥニ・ヴィルヌーヴでいちいちかっこよかった。バティスタもいい役。でも街の描写より荒野の比重の方が大きいので今ひとつ世界の奥行きはわからない。

でもめっちゃ落ち込んでいる人に対して「自分だと思った?思った?」って何回も聞くムーブは今後役に立ちそうだ。なんだろ、レプリカントだからあんな聞き方になったってわけじゃないよね……あれは面白かった。あとハリソンを争う二人を見るハリソンの「それはともかく早く助けてくれ……」なぼーっとした感じとか。

【アナベル2 死霊人形の誕生】悪魔に祈りを捧げるなかれ

スピンオフのプリクエルというスターウォーズもびっくりのフランチャイズを見せる死霊館シリーズの最新作。

死霊館シリーズの特徴といえば、おそろし心霊描写のつるべ打ちと悪魔に立ち向かう人間同士の思いやりの存在感だ。「死霊館 エンフィールド事件」ではその演出はマックス到達点に達して霊障家族にギターを聴かせてあげるシーンの異常なエモさがものすごく印象に残ったし、前作の「アナベル」でも、同じアパートに住む娘を失ったおばあさんが人間の善性を静かにまとっていた。

で、今作に関してはその人間の善性みたいなところはそうでもなかった。孤児院の子供達とシスター、あとは娘を失った夫婦が脅え要員なんだけども、霊障とは無関係な外部から助けてくれる人がいないっていうのはこんなに心細いことなんだなーって不安になった。だから生じる数々の驚きは全部めちゃくちゃ怖い。そこそこ半目で見るくらいに怖い。でも死霊館シリーズで欲しいものはちょっと満たされなかったりもした。とにかく怖いことは怖いんだけども。

あと、「インシディアス」とか「死霊館」シリーズのおかげでいろいろアメリカの悪霊のルールがわかってきた。キリスト教圏のルールじゃなくてアメリカのホラー映画のルールだけど。今までいろんな映画で悪霊退治してたけどジェームズ・ワンのシリーズはシリーズの積み重ねもあって特にわかりやすい。ジャンプのバトル漫画みたいに戦闘のルールがわかると鑑賞する方でサスペンスを勝手に感じ取れることができるのでどんどんこれからも新作が見たいところ。悪魔に何かを願ったらもうそれだけで後始末が大変だから気を付けよう。