おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

【ランペイジ 巨獣大乱闘】振りきった『ザ・マミー』

近年のロック様のご活躍ぶりから勝手に「ロック様はアメリカのティーンエイジャーのアイコンになろうとしている」説を提唱している。そして公開される主演映画を見るたびにその確信は強まっていく。この前DVDで見た『セントラル・インテリジェンス』もまさしくだったし。スパイものなのに高校時代の思い出を回顧するシーンが30分くらい続いてびっくりしたよ。

どれも共通しているのは今時のブロックバスターの水準からすればものすごくこぢんまりしているし、アクションもそんなに大袈裟じゃない。ちゃちゃっと作って、重いテーマよりも観客のあるあるとか時代に寄り添う感じ。で、たぶんその層っていまかなりロック様的には狙いやすいんだなーっていう気がする。MCUはちょっと複雑すぎて感情移入しにくいよねーっていう若者への目配せというか。

でも映画のプロットの印象はなぜか知らんがトム・クルーズの『ザ・マミー』を彷彿とさせる。飛行機墜落からの無事だったねーシーンもあるし、国の機関的な人も出てきて協力してくれるし。『ザ・マミー』もこんくらい振り切ってやっていけばよかったのかもしれない。MCUにはどう頑張ってもなれないわけだし。

お話はもう本当にひどい。腹を撃たれても「急所を外れたので全然平気」つってふつうにアクションに復帰するロック様とか、この前のレッスルマニアのシェーンだってだってもうちょっと気を遣って痛い感じの雰囲気だしてたってくらいひどい。

敵役も近年稀に見るアホっぷりだし、思わせぶりに出てきた傭兵の扱いもひどい。序盤に出てきた動物保護センターの新人とか同僚に至ってはロック様のキャラクターを説明する役割を果たしたらもう出てこない。ちょっと適当すぎるのではないか。でもそのぶん、『ザ・マミー』にあった続編への目配せというか思わせぶりがなくて、ものすごくスッキリ見られたし、まあ適当に楽しんでくれたまえみたいな開き直りは素直に受け入れられたのだよね。

ゴリラの造形もよかったし、最後のゴリラの下ネタには思わず「ちょっと!」と声が出てきてしまったくらいに愛着が持てるタイプのゴリラ。ゴリラの時代が来つつある。ゴリラに似過ぎているジョン・シナの時代の到来も近い。それはないか。

【ジュマンジ ウェルカムトゥジャングル】あっちのキリトはロック様

めっちゃアメリカでヒットしていると聞いて「どんなんなん??」と思ってたけど完全にティーン向けのライン。言ってよ。ハイスクールミュージカルとかそのへん。

ディズニーチャンネルとかニコロデオンとかそのへんのドラマのその先くらいの延長で、しかも内容がソードアートオンラインだから、あーなるほど、ラノベ的な需要の受け皿がこういうところにあるのかアメリカ、と妙に納得してしまった。キリトに憧れるかロック様に憧れるかの違いでしかないし、それって違いというほどの違いじゃないよね。

そう考えてみるとロック様は主演だとそういうラインの映画ばっかり出てるような気がするし、完全にそういう戦略なのだろうなあ。他にいないもんね、ティーンの憧れられるマッチョ俳優。

だから映画の内容もゆるゆるだったけど、これは私が文句言う筋合いのないゆるさだっつーことですね。リスポーンの位置とか、かなり大事な要素なのにだいぶ適当だったし。キメ顔ギャグは最高に好きなのであと3回見たかったです。

【リメンバー・ミー】忘れられたら終わりだなんて

まずはアナ雪の短編。短編っつーか22分。アナとエルサのイチャイチャ。これはもうクリストフの田舎もんいじりがマジでむかついた。ラップランド人をモデルにしてるキャラクターにすることかね。その食文化とか習慣を伝統として受け入れずに下品なものとして下位に位置づける態度はマジで普通に差別だからね。結局アナとエルサは汚れ役をやんないから、ハンスとかクリストフとかに道化させておけばいいやみたいなやり方は本当に下品だと思うよ。お貴族様はいいご身分ですね。

で、本編。よくできた映画だなーと思うけど、私はモアナほど全然ハマんなかった。なんでかなあと思ってたけど、モアナはプリンセスの定義を新しくしたけど、リメンバーミーは古い価値観を良きものとして素朴に肯定したからかなあと思ったよ。なんか、別に新しいもの見た感じはねえなあと。これは多分ある種の経営判断的なものがあるのかなあと思ったのは、やっぱりファミリー向けの映画を作ろう、というのはディズニーの至上命題であるんだろうし、南米や東南アジアなんかの、家族という単位がものすごく強い社会に刺さる映画を狙ったんだろうなという部分。日本なんてもはや市場ですらないし、アメリカにだって限界があるし、あと「アバローのプリンセス エレナ」なんかはちゃんとラテン系プリンセスやってスペイン語圏ではきちんとヒットしてるし、ポリティカル・コレクトネスを考えた上でエスニシティをピンポイントで攻めるからこその大きな稼ぎっていうのはあるからね、実際。ということをつらつら考えたけど、やっぱりちょっと窮屈だなあ、どんなに美しくても、あの死後の世界は。たった一人で誰からも認識されずに生きている人はどこかに確かにいるはずだし、その生き方って哲学的ですらあるけど、家族という共同体によって支えられている世界というものの見方ではマジで存在しないことになるのも頷けるし。木が倒れた時にその音を誰も聞いていなかったとしても、やっぱりその木は倒れたんだと、その木だけは思ってもいいじゃないの。

ってか、あの悪い人は人を殺したからもちろん悪い人なんだけど、人気者になったのはあの人の才能だと思うので、その栄光まで否定するのはかわいそうだよね。猪木は虚飾のスターかもしんないけど、それでも自身のカリスマであそこまでのことを成し遂げたんだしさあ。

あと、あのー……オチっていうか悪い奴の悪事が露見するくだりが「ズートピア」とおんなじ……。

【シェイプ・オブ・ウォーター】アカデミー賞そりゃとるよ

ジャンル映画がアカデミー賞獲ったのは快挙だというのは確かにそうかもしれないけど完全にアカデミー賞感が強くてアカデミー賞だよこの映画っていう印象がとにかく強い。中身も栄誉もアカデミー賞

特に終盤の白黒ミュージカルシーン、「アーティスト」とか思い出した。あと、隣人の動機付けのシークエンスが完全に動機付け以上の意味がなかったのがちょっと物足りないというか、もちろん構成としては完璧で時代状況とかを伝えるものでもあるっていうのはわかるけど、とにかく映画を作るのがうますぎるとうますぎることしか頭に残らなくなるのかもしれない。これは観る方の問題でもあるなあ。

それにしてもサリー・ホーキンスはすごい。ニヤリ……って笑う時に垣間見える、この人が生きてきた軌跡を思わせる含意みたいなものがとにかくすごい。お前は私の何も踏みにじることはできねえぞ、的な、強さというよりは人間としての矜持の部分。そんな彼女が一目惚れした恋ならば、成就しないなんてことはあってはならないでしょう。

【グレイテスト・ショーマン】松永兄弟物語

リアル・スティール』の時も思ったけどヒュー・ジャックマンは自分が超いい人だからドクズ親父をやりたがるのかな。と思っていろいろメイキング見てたら「手術翌日に医者から止められてるのに出演者の熱唱に気分が乗ってついつい歌いだしちゃった」動画を見てとにかくエネルギーがある人なんだな……とちょっとだけ得心がいった。全方向にエネルギーが溢れている人というのはいる。

19世紀の興行師P.T.バーナムがサーカスを作っていろんな見世物をやったけどやっぱ家族は大事よねっていうお話。家族は大事よねって話にしとけば主人公がドクズでもだいたいいい話になるのでアメリカ映画ずるい。

秋元康が宣伝してるってことで一瞬ちょっとムカつきリアクションが出たけどまあ秋元康は松永兄弟の後継者なので(個人の見解です)その松永兄弟と同質的興行師のお話を褒めて宣伝するのは完全に順当。

しかし小人プロレスの話の時にいつも思うのだけど、いるんだかいないんだかわからん「人権団体」を批判する人たちは、どこのポジションで文句言ってるのかなーってこと。だってだいたいの人はサーカスに出ている人たちの立場にはなれないわけで、もちろんサーカスに石を投げた地元の人たちでもないわけでしょう、悪役のつもりではどうやらなさそうだし。

んじゃあやっぱり客席に座ってワアワア言ってる人達でしかないわけだけど、お金払って彼らを見世物と消費している彼らだって、小人や髭女たちをなんか異形のものとして社会の一部としては受け入れず、洗濯物のシーツの向こうに閉じ込めていた以上、絶対に、変わらなければいけない人たちなのだ。いくらサーカスの人たちが初めて受け入れられた瞬間をお金を払って見ていたからといって、あんたたちの罪だって免れるわけじゃないんだよ。

小人プロレスの話にしてみれば、そもそもフジテレビの芸能部が全日本女子プロレスを放送した際に必要としていたのは「歌って戦える女の人」の映像なわけで、その時にまあ小人プロレスはいらないよね、苦情くるかもしれないし……みたいな判断って、別に人権団体のせい、というよりは当時ひたすら成長を遂げていたテレビの論理によって排除されたということでしょう。それは果たして人権団体の抗議によって起こされたものなのか?といったらそんなん単なる切断処理でしかなくて、市場原理とか、視聴者の感情とか、要するに私たち自身の問題なわけじゃないか。もしも「いや、俺は小人プロレスがテレビで見たいんだ。小人はプロレスをする権利があるし、他のあらゆる仕事に就職する際に差別されない権利がある」と意思表示した人ならば何か抗議を言うのも合理性があるかもしれないけど、そもそも小人とされる人の生活とか仕事とかにはなんの興味もなくて、ただ人権団体という正しさを振りかざしているように見える曖昧な存在を腐したいだけにそのことをその時だけ持ち出すのはあまりにも卑劣でしょう。少なくとも小人プロレスは、小人の人は面白い、笑っていい、という前提を作り出してはいたわけで、それは女の人の戦いは滑稽で面白い、普通の女ではない異形の戦いは卑猥で面白い、という前提を持って受け入れられていた女子プロレスと変わらないんじゃないのか。選手本人がプロとして振る舞うことと、それを面白がって消費する人たちが同じ気分を共有してもいいつもりになっては絶対にいけない。そこには最低限、尊敬くらいはなくてはいけない(女子プロレスを見ていればわかるが、いまだにそれすら持てない人が多すぎる)(スターダムのヤジにこの前やっと注意のアナウンスがいってロッシー遅いけどすべきことをやったよ)。実際の試合すら見ていない人に、その尊敬があるのか、ということでしょう。

たとえば一部の成長ホルモン分泌不全性低身長症は今ではホルモンの投与によって治療が可能になっているし、低身長を理由にした就業差別も少しずつではあるけど改善しつつある(もちろん私も当事者で、改善しつつある、なんて無責任な物言いは本来なら噴飯ものだ)わけで、そもそも小人プロレスを職業として選ぶプライオリティは当時よりはずっと低い。今では普通のプロレス団体だって新人の募集と育成には苦労しているわけで、小人プロレスだけ人権団体のせいにしていいと考える発想の出所こそ私は見直した方がいいんじゃないかよ、とすら思う。

たとえばリオネル・メッシに対して「ホルモン療法しなくても小人プロレスできたのにね」なんて言わないでしょう。彼の治療が高額で、多くのサッカーチームが彼の才能を欲しながらも援助をためらっていたのは有名な話で。

実際のところ松永兄弟は社会が担うべき福祉の部分を肩代わりしていた、半分くらいは闇社会の方の人なわけで、そのことは社会の一員たる私たちは反省すべきであって、「それもセーフティネットだし」みたいに開き直る態度をとれば、今度は私たちの足元に同じ論理がやってくるに違いないよ。

映画の話に戻るけど、P.T.バーナム半生記のこの映画が割とちゃんとしているところはバーナムは単にやりたいようにやっただけっていう部分はブレないところ。彼は偉い、社会の片隅に追いやられた人たちにスポットライトを当てた!とかしない。彼が調子に乗った時にカウンターとして繰り出されるサーカスの演者たちの「THIS IS ME」が図抜けた出来なのも当然のことだ。

彼は虚構をいいように扱って真実とか伝統とかに砂かけてた人で、映画の演出にも虚構めいた安っぽいキラキラが随所に見られるわけだけど、だったらあのオペラはもうちょっとちゃんとした、本物っぽいオペラにしてくれても良かったのでは……という気がする。そういう細かいヤバさのせいで真面目に色々と語る気が起きないという構造も、バーナムリスペクトなのか……。

【ビッグ・シック 僕たちの大いなる目ざめ】小ジョークの国アメリカ

フロリダのディズニーワールドにはモンスターズ・インクのラフ・フロアーというアトラクションがあるのだけど、これはお客さん参加型のアトラクションでまあディズニー・シーのタートル・トークと同じ感じかなと思うじゃない?でもこのアトラクションではなんと指名されたお客さんはジョークを言わなきゃいけない(多分)。しかも挙手制じゃない。私は怯えた。「そこの赤いTシャツがクールな人間のお嬢さん」と指名されたらニヤニヤするしかない。しかしアメリカ人はとっときのジョークを5つくらいきっと持っているのだろう。もうやだ。

というわけで実話を基にしたパキスタン移民のコメディアンが家族に内緒でムスリムじゃない女性と付き合うけどその彼女が意識不明になって……みたいな話の『ビッグ・シック』だけど基本的には小ジョーク映画なのでかなりの密度の小ジョーク。アメリカの象徴としての小ジョークと思いきやパキスタン移民はパキスタンジョークをたまに言うので油断できない。つまり小ジョークはあの土地に常に揺らいでいるのだ。

エスニシティとか宗教とかの話ではなく、割と普遍的な、社会的背景に遮られて「大切な人に大切なことを隠す」とか「勇気のないまま相手と一緒にいる」というものをどう乗り越えるか、みたいな話で、葛藤の中心は主人公のコメディアンとそして彼女の両親だったりする。これは想定外だった。昏睡してしまった女性を中心にして、その人を愛していた人たちが自分たちの問題と向き合う。小ジョークを言いながら。

で、そこで見つけた結論はいろいろだけど、一言で言うと「人のせいにしないで、愛している人は愛している人で、自分の人生は自分で決めたほうがいいよ」ということなのかな。あくまでエスニシティとか宗教は人生のオプションであるべきっていうか。病院を変わる変わらない問題も、たぶん「自分の判断で最善を尽くす(それはもしかしたら間違いかもしれない)」という意味を含んでいるように思えたし。

いくつものアイデンティティが重なる瞬間を描いた映画だけど、彼らは実は小ジョークでつながっているのでまあアメリカなのかな。

【ロープ 戦場の生命線】なわはもっとも古い人間の道具の一つ

これは面白かった。かなり見るべき映画。

戦場となった国の難民が利用する井戸に死体がハマっちゃって(誰かが投げ入れたのかもと示唆されるけど本当のことはわからない)このままでは水が汚染されて飲めなくなるので死体をロープで引き上げるけど……切れた!

ということで水を供給するNGO職員のベニチオ・デル・トロとかロビン・ウィリアムスとかがロープを求めて東奔西走する一日を描く。たった一本のロープのために、でもそのたった一本のロープが、ここでは全然、全然見つからないのだ。

ロープっつったら安部公房の「なわ」だよね。安部公房は人間の原始的な道具がむしろ人間の行動を規定し始め、人の意思あるいは存在と等価になる瞬間をいろいろ書いているけど、ここでNGO職員たちは様々な用途で使われ、人間の意思によって変容する縄たちの姿を(そして職員たちの意思通りには動いてくれない、戦争によって生み出された現実の姿を)目撃する。

よく「戦争の真実」とかいう言い方をして、「現実はもっと過酷だ」「脳内お花畑」とかいろいろなことを言って冷笑的な態度を取る人がいるし、まあこの映画で描かれている国連軍の振る舞いとそれによって生じるベニチオさんたちの忸怩たる思いは「偽善的行為の導く現実」ってな話かもしれないし、でもねえ。それに対する反論って何かなって思ったんだけど、結局のところ世界は複雑すぎるっていうことへの理解の問題なのかなって気がしてきた。それは縄の振る舞いにも還元されうることで、一つの役割を果たした縄が、その同じ縄が、別の役割を果たすことだって大いにあり得る、というかそれこそ当たり前のこと。悪い状況がそのままの姿で良きものにもなる。その矛盾に、しかし縄ではない人間は耐えられない。でも、安部公房の世界に迷い込む必要だってないよ。「砂の女」とか尋常じゃなくこええし。

まあいろいろ言ってみたけど、牛迂回問答とかかなりユーモラスで面白かったです。ラストシーンも素晴らしかった。道具以外の解決策をもたらされ、身を委ねることもできるし、人の意思を超えたところに何かがあると信じることもできる。だから人は縄とは違うし、NGOの人だってパーフェクト・デイを突き進むのだ。