おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

スーパーマリオオデッセイはいよいよマジもんのゲーム下手にも気を遣う新世代ゲーだけど話は古代

はじめてマリオをクリアした。

Wiiの時から変だと思っていたのだ。「直感的な操作性」「お年寄りも子供も楽しめる」みたいな感じで死ぬほど流行っていたWiiだが全然簡単じゃない。ポインタはふらふらするし、挙句の果てはWiiモーションプラスとかいう精密さを求める仕様を追加して私を苦しめた。「スカイウォードソード」がいかに名作だろうが、「剣の刃を縦にして切る」ってお前、現実でチャンバラする方がまだその動きはできるぞってなった。間口を広げますよ〜っていう任天堂の言葉は今後一切信じられんと私の不信感は頂点に。

switchはそんなことない。すごいぞswitch。そもそもWiiリモコンはデカかったのだな。おかげでボタン操作とjoy-conを振る操作もちゃんと両立できる。ゲーマー諸氏におかれましてはこの「ボタン操作とjoy-con操作を同時に要求される」というのが結構不満なようだし言いたいことはわかる(携帯モードにしてモニタとjoy-conをくっつけたりプロコン使ったりするとjoy-conを振る操作自体ができなくなるし、joy-conを振る以外の代替手段が用意されていないのでゲームプレイのアクションが制限されてしまう。こういう一貫性のなさはゲーマーは嫌いだ)んだけど、ボタンを押してから振ればホーミングっていう操作に私は何度も助けられた。だからクリエイターが想定するゲームプレイを実現するためには推奨のプレイスタイルでやればいいんじゃないかな。スカイウォードソードだってWiiモーションプラスが必須だったわけだし。あとは壁のない落ちれば即死の狭い平均台的な道を行く場面は何度も何度もなんども死んだが致し方ない。さすがに私が悪いよ。

ただしストーリーはけっこうヤバめ。このご時世、クッパにさらわれたピーチを助け出してマリオありがとう!キッス!みたいなことはできない(女性はトロフィーじゃないからね。「バトルシップ」でさえわかってて実践してたことだ)んだけど、そのせいでマリオがクッパに(お前も大変だな……俺もだ)みたいな雰囲気になる。そんでピーチが妙に薄情な感じになる。せっかく助けに来たのに、なんだったんや……みたいな。ピーチは悪くないんだけど、マリオといるときだけ自我を見せて自立しているように見せている気もするし、クッパはめちゃくちゃピーチのことを恋慕していることもわかるけどだからってしていることが許されるわけでもないし。

オデッセイの事前CM見た時に、普通の頭身の人々の間を歩くマリオを見て「あ、近代的自我の芽生え。マリオも自分の意思があるように見える」とドキドキしたんだけど、なんかそれが主体的なものでなくて作っている人が無理やり現代に合わせるために突貫的にこしらえたように見えた。ピーチの扱いをPC的に正しいものにしたいなら「ピーチがクッパにさらわれてそれを助けに行く」っていうフォーマットから捨てなきゃいけないんだけど、それはできない。から変な感じになってるってことなんだろう。上辺だけ取り繕ってもしょうもないって話だ。

どこもかしこも大絶賛なゲームだし私も躊躇なく「神ゲー」と言っちゃうマスターピース生まれたっすだけど、それを台無しにしないとも限らない危険性をはらんだお話の致命的な穴に言及されていない気がするのでゲーム批評の前途もなかなか大変だと思うよ。

【ゲット・アウト】その肉体、羨ましいわあ

黒人レスラーのフィジカルに憧憬を覚える瞬間は枚挙にいとまがない。骨格あるいは筋肉のつき方の差にいつもため息を漏らす。モンゴロイドだろうがコーカソイドだろうが太った人もいれば痩せている人もムキムキな人もいるのに「ネグロイドは鍛えればすぐに筋肉がつくからいいよね」と言ってみせる私がいる。なんという差別だろう。続いてこんなことすら付け足す。「今のは羨ましい気持ちを素直に表現しただけ。差別じゃないよ。その意図はない」

差別である。

おおっぴらに「XX人はきたない、頭が悪い、残酷だ」と言うことは決まりが悪くなる(もちろん実態はそうでもない)この世界を差別がなくなった社会と考えられればどんなに楽か。「オバマが、黒人が大統領なんだから、差別なんて過去のこと(もう白人だからって決まりの悪い思いしなくていいんだ!)」と笑顔で言って、「いやあ、黒人はムキムキで羨ましいわあ(むしろ黒人を羨んで見せたりだってしちゃうもんねー)」とその腕を無遠慮に触る。
大きなかたまりだった差別は細い糸のようにわかりづらい姿になって散り、私たちの日常にうまいこと入り込んで縛る。

そして名誉白人ぶっている日系人だって出ちゃう。発達しづらい背中の筋肉のせいで猫背がちな、見た目だけだとアジア人って広く言える気もするけど、語尾の母音だけがめっちゃ強い発音は完全に日本人。韓国でも中国でもないってはっきりわかる。

この人については以下のインタビューで言及されててありがたかった。

globe.asahi.com


劇中、タナカという日系人あるいは日本人の中年男性が、裕福な白人集団にまじって出てくる。彼が登場した意味を聞くと、ピール監督は日本人の私に言葉を選びつつ、答えた。「タナカはマイノリティーだが、白人エリートの文化に受け入れられ、彼自身も溶け込み、カネもある。そうした『モデル・マイノリティー』を描こうという考えからだった」。あぁ、とてもよくわかる。日本の人はアジア系として米国ではマイノリティーに位置するのに、まるで自分が「白人」の側にいるかのようにふるまい、「黒人とは違う」と分けて考えてしまう人が、いる。

日本人も加害に加担してるよ、としたいシーンのはずなんだけど、この「日本人の私に言葉を選びつつ」というのがミソよね。黒人差別を映画で表明した映画監督が、自分の映画で描いたアジア人について当事者のアジア人に語るときにはきまり悪くなってしまう。これは名誉白人ぶる差別主義な日本人を描いてるんだよって言っても、それを日本人と表現するときに使用する表象は明確に差別的な揶揄とならざるをえない。言ってることとやってることが違うっていうか、言ってることを自分もやっちゃってるよねっていう。だからいざその表象を現実に生きている人に説明するには言葉を選ばなきゃいけないんでしょう、それってでも、差別じゃないのかなー。

映画の話としては前半のパーティーシーンがやや冗長に感じたけど、たぶんアメリカで生きる人には「あるあるwww」って感覚が目白押しなんだろうから文化圏の違いってことで仕方がないかな。とにかく友達のTSA職員がすんごい良かったし、トランプ政権誕生によって変更されたという結末は当初予定されていたものより抜群にお話としてのまとまりを作り出していて、ホラー映画ほど結末が重要やねーって思いましたよ。

【エイリアン:コヴェナント】人間はアホなので次世代は奴に任せた

映画館で見たけど感想などを失念したまま『ブレードランナー2049』を見たらかなり対照的だったのでメモ代わりに。要点はもちろんアンドロイドと人類の扱いについてだ。
まずコヴェナント号の乗組員は全員かなりの無能でありそんな無能は全員寝ていてもファスベンダー演じるアンドロイドがいれば艦の運行には何にも問題ない。ドジで焦り屋の、宇宙船の乗組員としてはどうかと思うけど一般人だったら割と標準くらいの乗組員がランチ船を爆発させたりする。つまり人類は滅びかけているので有能な人材とかはすでに果てているということで、まさしく黄昏なのであろう。ヒロインの乗組員は一応ヒロインなのでほかのキャラクターよりは活躍したり聡いところを見せたりするが映画全体は「人間は滅びる。知性によって覇権を握っていたのならより高度な知性を持つものが現れた時に滅びなければいけない。思いやりとか優しさとかいきもの特有のものとされているものとかはどうでもいい。そんなもの論理だしゆえにアンドロイドにもあるし。滅びるもんは滅びる。進化した存在はファスベンダーがいるしそんな悲しいことでもなかろうよ」と一貫した論理に貫かれている。

もちろんエイリアンってタイトルについている映画なのでこんなアンドロイドの話を延々とされても困るし実際本国でもあんまりお客さん入んなかったみたいなのだけど、SFらしさって意味ではこちらの方に軍配があがる。むしろこのテーマを突き詰めるならどう考えてもブレードランナーの方が適していると思うのだけど、なぜリドスコはエイリアンを選んだのだ。エイリアンな話もしないといけないのでアンドロイドの葛藤とか設定とか(最新型なので強制停止コマンドから復帰できるのだとか言われてもだったらそんな強制停止コマンドつける意味ある?)が中途半端だし。

でもいろいろぐるぐる考えてたらウザがられるSFファンってこういう風に出来てくるんだなーって気づいてゾッとした。すまん。「SFなんだからSFでしか見られないロジックなりドラマなり見たいんだ。こんな話なら別のジャンルでもできるだろー」って前提で話をしてどんどんジャンルが狭まっていくのだなあ。とはいえ『ブレードランナー』と『エイリアン』に関しては、言ってもいい文句な気がするけど……。

【ブレードランナー2049】SF映画は誰のためのもの

悪い意味で昔のSFのマインドがお話の端々にはみ出てて物凄い古さ。とにかく主人公のライアン・ゴズリングことKの恋愛がきつい。人工知能は人を愛することができる?みたいな疑問についてSFらしい解を出さずに普通にセックスするしょうもなさ。しかしアリス・シェルドンがジェイムズ・ティプトリー・ジュニアを名乗らざるをえなかった時代の感覚を踏襲していると考えれば正しい態度なのかと思いつつ、そんなののどこがSFなんだよ、とも反感を抱きもするわけで。今は2017年なわけだし。同じテーマの映画というと「エクスマキナ」に顕著だったけど、あれは人工知能への恐怖と女性が自我を持っていることへの恐怖を混同してしまった(どちらも使役するものという強固な前提を疑わない)典型的なダメなSFだったな、と思いもするわけで、そういえばけっきょく映画っていうのはアシモフの書いたロボットの可能性すら描くことができないままなんじゃないの、という疑念すら沸き起こる。映画は男のための、既存の価値観を保存するためのものであり、それゆえにワインスタインのような男もいるのではないん?と。

いや、そんなことはないか。にしてもより複雑で未来的な議論をすることも可能だったはずだし、例えば「her 世界に一つの彼女」とかの方がよっぽど愛と可能性に満ちた結論を提示していた。人工知能や肉体を持たざる生命体は人間よりも進化したものなのだから、無理に人間の真似をする必要なんかないととっとと気づいて彼らなりの、より神の愛に近いかもしれない愛の表現形を実践するだろうとどうして思えないのだ。

画はいつものドゥニ・ヴィルヌーヴでいちいちかっこよかった。バティスタもいい役。でも街の描写より荒野の比重の方が大きいので今ひとつ世界の奥行きはわからない。

でもめっちゃ落ち込んでいる人に対して「自分だと思った?思った?」って何回も聞くムーブは今後役に立ちそうだ。なんだろ、レプリカントだからあんな聞き方になったってわけじゃないよね……あれは面白かった。あとハリソンを争う二人を見るハリソンの「それはともかく早く助けてくれ……」なぼーっとした感じとか。

【アナベル2 死霊人形の誕生】悪魔に祈りを捧げるなかれ

スピンオフのプリクエルというスターウォーズもびっくりのフランチャイズを見せる死霊館シリーズの最新作。

死霊館シリーズの特徴といえば、おそろし心霊描写のつるべ打ちと悪魔に立ち向かう人間同士の思いやりの存在感だ。「死霊館 エンフィールド事件」ではその演出はマックス到達点に達して霊障家族にギターを聴かせてあげるシーンの異常なエモさがものすごく印象に残ったし、前作の「アナベル」でも、同じアパートに住む娘を失ったおばあさんが人間の善性を静かにまとっていた。

で、今作に関してはその人間の善性みたいなところはそうでもなかった。孤児院の子供達とシスター、あとは娘を失った夫婦が脅え要員なんだけども、霊障とは無関係な外部から助けてくれる人がいないっていうのはこんなに心細いことなんだなーって不安になった。だから生じる数々の驚きは全部めちゃくちゃ怖い。そこそこ半目で見るくらいに怖い。でも死霊館シリーズで欲しいものはちょっと満たされなかったりもした。とにかく怖いことは怖いんだけども。

あと、「インシディアス」とか「死霊館」シリーズのおかげでいろいろアメリカの悪霊のルールがわかってきた。キリスト教圏のルールじゃなくてアメリカのホラー映画のルールだけど。今までいろんな映画で悪霊退治してたけどジェームズ・ワンのシリーズはシリーズの積み重ねもあって特にわかりやすい。ジャンプのバトル漫画みたいに戦闘のルールがわかると鑑賞する方でサスペンスを勝手に感じ取れることができるのでどんどんこれからも新作が見たいところ。悪魔に何かを願ったらもうそれだけで後始末が大変だから気を付けよう。

WWE LIVE Osaka2017を見てWWEのやり方に気づく

とりあえず中邑真輔の話をするね。

去年の大阪公演で中邑真輔が見せてくれたのは、ここからまた始まるのだという自然体の決意だった。見る者もまた、そこから始められることを促されるような。いつでも人は劇的に変わりうるのだという困難さを当たり前のもののように表現する中邑真輔。それは彼の生きてきたプロレス人生がなければ完成されえないすべてを包含する芸術だった。

先だって、WWE LIVEをフロリダで観戦したのだけれど、フロリダで見た興行も大阪で見た興行もSmackdownブランドだったから余計わかりやすかったのだけれど、その両者は基本的なパッケージはほとんど同じだったんだよね。って言うか今年は両国公演を含めて年に3回WWEを見たことになり、プロレスがちょっと好きなアメリカ人よりWWEを観戦してる気がするのだが来年もぜひどこかしらの公演を見に行きたい。ついでに来年もちゃんと両国、大阪の2公演をしてほしい。ぜひとも。でもWWE mobile終わっちゃったんだよね……どうなるんだろうか……。

フロリダのメインのベビーはランディ・オートン。大阪のメインは中邑真輔。相手となるヒールはどちらもジンダー・マハル。試合は一進一退の攻防でありつつランディ・中邑が優勢だが、シン・ブラザーズの介入により隙を見せざるをえなかったベビーは敗北を喫し、しかし試合終了後に立ち直って自らのフィニッシャーを華麗に決める。オートンはRKO、中邑はもちろんキンシャサだ。その日一番の大音声が客席を埋め尽くし、気持ちいい笑顔を浮かべて観客は座席から立ち上がる。

ものすごく効率的なやり方だ。ひとつの脚本、多彩なタレント。あとはその興行をする地域に合わせてメインをすげ替えればいい。最近はWWEも会場にあまり客が入らなくなっているというニュースが流れがちだけど、WWE Networkの機能をよりワールドワイドなものにするために世界ツアーをより活発におこなっていく方向性にするのなら、まあアメリカ国内の動員が減ってもあんま気にしないのかなあって感じはする。もちろんLIVEならともかくRAWとかで空席が目立つのはよろしいことではないしアメリカ国内での求心力は弱まっている気はするのだけど。今のご時世トランプと仲良しこよしでオッケーっていうエンタメはキツイよやっぱ。応援するのも。まあこの辺の愚痴はいいや。とにかく。

そのワールドワイドパッケージの重要なピースとして、中邑真輔というスーパースターはパーフェクトに機能していた。それは当たり前な話で、プロレスラーとして彼が一流であるからという理由以上に、日本においての最適な振る舞い方を中邑真輔は知悉しているからだ。それはほかの日本人ではないスーパースターの誰にもできないことだ。WWEはエンターテイメントの最大公約数的なやり方を持ち合わせてはいるが、WWE Networkに世界中の人が9.99ドルを払ってもいいと思わせるためには不十分なのも間違いはない。世界サーキットはWWEを愛するユニバースのために用意されるご褒美のお目見えではなく、その国、地域を侵略する愛想のいいセールスマンにならなければならない。そのために必要なものは?たった一人の、現地の人間だ。言葉がわかればいい。好かれていれば、最高だ。

なんつーのは言い過ぎだとは思うけど、いろんな国のバックグラウンドの人を集めているのは確かなことだし。メイ・ヤング・クラシックにいたっては国別の対抗戦の形を与えられていたので、かなり露骨である。グローバルなビジネスだなんだと言っても、そこで最大限の利益を出すためにはどこまでもローカルに接近しつつ経済活動を成り立たせる最小単位を見つけ出す、というのが現代のビジネスなんだろう。資本主義は国境を越えて全ての人間を経済活動の奴隷にするが、しかしそれでも人間の心性は絶対に小さな箱から出られない。不自由は広がり、自由は決められた場所から動かない。

そんな中で中邑真輔は一年のあいだに全てを新しくした。三十代後半にしてまっさらな新人の状態になって、しかし大人になってじゅうぶんに努力した人間のスタートはゼロではなく、なおかつそれまでと同じことを繰り返す必要もない。人はいつでも始められる。彼は同年代のあらゆるプロレスラーの中で、いちばんかっこいいひとだと、プロレスファンにもそうでないひとにも、私は見境なく教えたい。

【猿の惑星:聖戦記 グレート・ウォー】猿の十戒、あるいは地を這う罪深き者

50年前くらいの映画みたいなお話ぶりでドキドキしたが最後まで見ると納得。なんつーか、聖書だ。スタジオ制作の聖書スペクタクルなお話だ。

シーザーは何者かなと思っていたらモーセだったし聖戦記と言いつつ出エジプト記だった。前作で原罪を猿のものとし死んだコバはシーザーのもう一つの姿としてたびたび姿を現し、シーザーはその影に苦しみながら猿たちの苦難の旅を安寧の地へと導く。ときに猿たちは異教徒に囚われ使役されるが、神が与えたもうた試練とわざわいの中を歩み続け、預言者はその使命を成就する。

とにかく世界にはほぼ人間がいないので画面は猿で埋め尽くされる。見渡す限り猿猿、猿猿、人猿猿。これは観る方も大変だし作る方はもっと大変だと思ってたらさすがに途中で少数精鋭猿の旅になる。人間以外のものへの親近感の限界みたいなものを感じた。脳がうまく画面の中の社会を位置付けられないのかも。猿がもはや現実としか言いようがないくらいリアルだから余計に。そして猿はほぼ手話と猿語?で話すからマジで猿のための映画を見ている感覚に。猿による『十戒』とも言える。ん?『十戒』ということはつまりチャールトン・ヘストンの系譜で……ここで『猿の惑星(1968)』と接続される……そうか、そういうことだったのか。とにかく全体として不思議体験なので映画館で見るのがオススメ。

前作『猿の惑星 新世紀』でいちばん感心した部分は語り口とか猿のCGとかではなく、アクションの新しさだった。猿は人間と違って上下の移動が得意なため、文字どおり縦横無尽に、高さのある見たことのないアクションを猿たちは披露してくれた。猿アクションだ。これにはかなりワクワクした。明確にそれは、人間と猿との違いだった。猿は人と違う文明を築くだろうと予感させる、意味のある画作りだったと思う。
そんでもってその〝猿と人間の違い〟が明確な意味を持つシーンが完結作たる今作には存在したので私は大喜びだった。人間など、するすると木に登れる猿にとっては、聖書における最初にして最大の誘惑者たる蛇に過ぎないのだ。神はその誘惑を知って蛇を生涯、地を這うものとした。猿にしてみれば、人もまた地を這うものに過ぎない。悲しくなるくらい、人間には何もなかった。もはやおそらく大多数の生き延びようとする者には魂すらも……うう……。

禍々しく用いられる「Stars and Stripes Forever」、燃えてちぎれる星条旗。怯えた自分をごまかすためだけに、奴隷を使役して築かれる無意味な壁。壁だ!約束された場所はアメリカではなかった。似たようなテーマ、危機感、同じような作りの映画をもう何本も見ているし、終盤はまんま『ローガン』だった。みんな同じように「やばい!」ってまじで思ってるんだな。それをちゃんと映画で語ってるんだから、いろいろキツい状況だっていうのはわかるし夢の国ではないのかもしれないけど、絶対に希望を持つことを諦めていないアメリカやっぱすごいよ。