おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

【ダンケルク】時よ等しくあれ、汝が名は故郷

彼らはじっと海を見る。目に見えるほどの距離にhomeがある。でもどうしてここにいるのだろう。あそこにhomeがあるのに。ここは違う、ここは、……。

戦争は時間をバラバラにする。あの人が死んだのはいつのことだったろうか。あの海岸までの道のりは永遠のような果てしなさだ。さて、僕の家にある思い出はもう遠すぎて、本当に平和な生活というものはあったのだろうか、とても信じられない。あの飛行機は、何十人も何百人もの人生を、まばたきするあいだに消し去っているよ。吹きすさぶ海岸の風は二日前のものか明日のものか。確かなことは今、生きていること。死にたくないということ。そしてさらに時間はちぎられて吹き飛ばされてバラバラになる。

夢のようなトム・ハーディの佇む姿のあとに、新聞紙が擦れる音と生き延びた兵士の視線が静かな劇場を支配する。時は一つになり、つかの間の平和は英国のひとびとの歓迎の声の中に取り戻された。だが、すぐにまた時は引き裂かれるだろう。彼らは故郷に、それ、を持ち帰りもしたのだから。

大阪エキスポシティのレーザーIMAXでダンケルク見てとしまえんと比べた結果

SNS上で話題になっている『ダンケルク』をオリジナルフィルムを見るなら世界13カ所にしかないレーザーIMAXで見ないといけない問題。ちょうどいいタイミングでWWE大阪公演があったのでついでに万博記念公園にあるという109シネマズ大阪エキスポシティに行ってみることにした。普段は20円財布から出すのすら嫌なのにプロレスにかかるコストはノーカンみたいなところあるのでこんなちょうどいいことはない。
劇場へのアクセスは新大阪駅から御堂筋線で終点の千里中央まで行って(乗り換え案内で路線検索すると江坂で別路線に乗り換えみたいなのが表示されることがあるけど千里中央までは直通です)、千里中央で一回降りてモノレールに乗り換える。モノレールの駅までは少し歩くけど距離的には2分くらいでアーケード的に屋根もあるので雨が降ってても濡れない。体感的には浜松町でJRからモノレールに乗り換えるのと同じ感じ。そこから2駅目が万博記念公園、お目当ての109シネマズもそこにある。駅からは歩いてすぐ、5分見とけば間違いない。ここはららぽーとがあって、ガンダムカフェもあって、ニュースになってたポケモン関連の施設もあって、都心からちょっと離れた商業施設がたくさんあるエリア、雰囲気的にはお台場みたいなところなんだろう。

 

スクリーンはさすがにでかい。だけどほぼ真四角正方形なので、普段から横長のスクリーンに慣れている(スケール感を横のサイズだけで判断している)ので、大きいとは意外と感じなかった。また、スクリーンの上下左右に一切の空きがなくすぐに床、壁、天井がくるのも小さく見える要因かも。ユナイテッドシネマとしまえんIMAXはスクリーンの上下左右にスペースがあるので開放感というか、実際のスクリーンより大きく見えるのかもしれない。実際にサイズの記述を調べてみるまで、横幅はとしまえんの方が大きいと思ってたくらいだし。そういう意味ではノーハッタリ、完全に映画と観客だけが存在する空間として設計されているのかなって気がしたよ。

画面はとにかくほぼ正方形。字幕は画面の下から三分の一くらいの位置にあって、最初は「ど真ん中に字幕!」ってびっくりする。席によっては下が見切れちゃうしなあって思ってたら、たまーに気づくとフルサイズじゃなくてIMAXの標準くらいの画面サイズになるのでその時にはちょうどいい位置になる。なんと『ダンケルク』も全編あのサイズじゃない。知らなかったのでびっくりした。だいたい10~20%はこの小さいサイズでいく。意外とサイズが違うのは気にならない、というかぼーっとしていると気づかないくらいなんだけど、狭くなるとそのぶん劇場が暗くなるのでやっと「あそういえば縮んでるな今」となる感じ。フルサイズじゃないのはおもに1dayの民間船舶のシーン。会話で顔のアップが切り返されているところは特にそう。追撮の部分かなとは思うしスピットファイアの部分は基本的にフルサイズなのでたぶんノーランの撮りたいところはもれなくちゃんとでかい。これってけっこう不思議な話で、たとえば「エンドロールの途中で立つな、エンドロール込みで監督のフィルムだ」みたいなことがよく言われるし、私もエンドロール中に席を立つことはないけど、じゃあ上下サイズが伸びたり縮んだりする、監督の意図的な演出ではなくあくまで技術的・予算的な問題での曖昧さは、どう解釈すればいいんだろう。IMAXレーザー以外のすべてのシーンのサイズが同じフィルムは不完全なら、私たちは常にエンドロールで席を立っているのと同じになってしまうのだろうか。パーフェクトなフィルムや映画体験てどこにあるんだろう。「本物を見るならこうしなきゃいけない、ここに行かなきゃいけない」というのはもしかしたらすごく傲慢な言い方なんじゃないだろうか。

結論としては、レーザーIMAXの映画は大阪エキスポシティで見ないとフルに楽しめないのか問題だけど、実際に見に行ってみて思ったのはまあ近くに映画館あるならとりあえず劇場行く元気を出して行けばいいのではないかって以上の感想はないかな。

 

個人的に気になっているのは最近の映画の音響で、低音で音圧高くしすぎじゃないですかね。低い音がすでに低い音じゃなくて、劇場のビリビリ振動音込みでの低音になってるんだよね。人によってはこの方向性での進化が続くと劇場に来られなくなっちゃうんじゃないかなあって気がしてる。低音出すのは機材がいるしお金がかかるしだからそっち方向にこだわりたい人がいるっていうのはわかるけど、そのぶん置いてけぼりの音域が増えがち。これをもってして「大阪エキスポシティは音響が……」とか言おうとしたけどあとから行ったとしまえんもビリビリだったので、それがIMAXの標準なんだろう。部屋の構造上、立方体寄りのエキスポシティの方が反響しやすかくビリビリを感じた気がしたのでしょう。一度、立川シネマシティの極上爆音上映も行ったんだけど、二度と行かないなあ、これを売りにされてもなあって感じでした。オーディオ界隈ってオカルトだなんだって言われがちだし実際オカルトな部分は多いけど、低音だけをやたらとありがたがるのも不合理だと私は思っているよ。臨場感ばかりが映画体験じゃないでしょう。

 

いろいろ言うけど映像の質とか音響のあれこれとかどんなにこだわったハコに行っても、隣席と前席に座ったお客さん次第で劇場での体験なんていくらでもよくなったり悪くなったりするからね。今回の上映では隣に座った男性が、液晶画面以外にランプが付いているタイプのスマホを膝に置いたまま鑑賞してて、お前死ぬまでピカピカ光らせてんのかよってくらいずっとピカピカ光らせてて、鑑賞中ずっと手のひらをその男性の側に向けて光を遮断してなければならなかったのである。正直私は上映中にスマホを見ることはたいして気にならないのだけど(今時のスマホ、暗いところだとくらーい感じで光るからでかいスクリーンの光量だとスクリーンの方がだいたい勝ってるし)、腕時計に反射したスクリーンの光がチラチラ視界をよぎったりとかそういうやつの方が「おや?」と思うんだけど、その人に文句言う筋合いはまったくないし。その人は腕時計してるだけだから。いや、でもスマホのランプをピカピカさせるのはよくないよなあ……。モヤモヤしたものが残るけど、それもまた映画館の体験だよね。

【ELLE】私は私として生きる

みんな、連続殺人事件とレイプ事件が大好きだ。多くの犯罪報道は大半が娯楽として消費される(事件に怒りを感じるのもまた消費行動の一つだ)。特に後者の場合、男女の非対称性に基づき、被害者は(たとえ男性でも)弱い方の性を持つものとして侮られ、何重にもわたって主体的人格もまた侮られる。

この映画の中心であり圧倒的な主体性を持つ彼女(ELLE)であり、父親が27人もの人を殺してしまって自らも有名人になってしまったミシェル。彼女は冒頭、謎の人物にレイプされるが、彼女は淡々と日常生活を続ける。掃除をして寿司を頼んで息子と談笑する。この一連の映像を異様なものとして見る人が意外と多いのに驚いたけれど、こういった事件で被害者が事件の直後から淡々といつも通りの生活を過ごしてしまうのは実際のところよく聞く話だ。そしてそれをもってして、「被害者にとっては大したことではない、むしろセックスを受け入れていたのでは?」と述べる人もいる。最悪なことに。

どんなことがあっても、私は私としての人生を止めることはできない。なのに他人は私の人生を評価しようとする。君のことをわかりたいからと言って。わからない君は受け入れられないからと言って。ときにその欲望に応じるため、私はステレオタイプの振る舞いをして、他人を安心させようとする。ステレオタイプの振る舞いは、決して現実に即したリアルなものでなかったとしても。

という葛藤をミシェルははじめから持っていないので変な人に見えるんだろね。ミシェルはレイプ犯を特定した後もすぐに何かをどうこうしようとはしない。ミシェルがしたいことの中に、ミシェルがする行動の判断の中に、彼をどうこうするという選択肢が浮上してこないうちは、彼女は何もしない。「普通はすぐに警察に行くはずだ」「普通は怒りで相手を殺してしまうはずだ」でもそれって、「普通はものすごく抵抗するはずだ」「普通は日常生活なんて送れず泣いてしまうはずだ」ということと同じだ。ミシェルはそのすべてを並べて、すべてを自分の価値判断に委ねる。時間と状況の流れによってはその価値判断は変化する。その変化もまた私たちを再帰的に苦しめることがあるのに。確かに、実際にこんなことできる人はいない。普通を持ち出す他人に引きずられてしまう。そういう意味ではミシェルは変なのかもしれない。でも、変になった方がいい。ミシェルみたいになれなくても、ミシェルみたいでいいと思っていい。

あと、ハリウッドの女優がみんなこの仕事を断ってイザベル・ユペールが引き受けてパリの映画になったことについてだけども。イザベル・ユペールはとにかく美しいしミシェルとしての矜持を肉体全てに漲らせている演技は本当にすごいものだけど、だからと言って「これぞ本物の女優」「他の女優はお高くとまってやーね」みたいな評価に還元するのは絶対違うから気をつけよう。キツイ役やったり無茶苦茶な役作りしたりするのはその人本人の役者論の問題であって俳優のすごい・すごくないを決める基準にはならないからね。仕事として受けるにはちょっと自分に合ってなかったり演じたいタイプの役柄でなきゃ断るんだから、それはそれでプロの判断なんだから。おっぱい出せば偉いみたいな風潮といっしょだけど、それって役者の技能をバカにしていることでもあるんだから、早く消えてほしい。

【新感染 ファイナル・エクスプレス】肘打ちの有用性

驚いたことにめっちゃウェルメイドとも言える圧倒的な完成度になんなんだよウェルメイドなゾンビ映画ってと一日千秋の思い。わりとゾンビ映画ってジャンルものとして立ち位置がはっきりしてるから作っている人もどこかに外連味を入れないとなあみたいな思いがあるんだけど、この映画はジャンルものとしてのゾンビ映画らしさみたいなものにははじめから興味なくて、だから人体破壊描写とかも全然ない。だからこそゾンビ映画に興味のある層以外も集客できて、大ヒットってことになったんだろうな。ゾンビ映画はそれこそゲームの「バイオハザード」以降、ザックの「ドーン・オブ・ザ・デッド」とかもあって一般的なジャンルになっていたような気がしていたけど、それでもどこかにマニアックさを感じさせる見えざるコードみたいなものがあったのかもしれない。

ただハラハラ感は尋常じゃなくて最初の駅を出発したあたりで既に「帰りたい……怖い……」となった。ゾンビ映画はとにかく出だしが帰りたい。ひと噛みで感染しつつ致死的な怪我を負ったら即効でゾンビ化するタイプのゾンビなのでルールはシンプル。走るアドバンテージは新幹線の車内なのでそれほどでもなく、マ・ドンソクの本気の肘打ちで沈むので多くのスポーツ格闘技で肘打ちが禁止されている理由がわかった。 そこかしこで言われていることだろうけど、ゾンビに襲われて大変というところではない部分、追い詰められた人間のクソしょーもなさが炸裂する一連のシークエンスはやはりこの映画の白眉。えっゾンビじゃなかったし……というところに気づいても、自らのしたことと湧き上がってくる罪悪感から目を背けたくて、主人公たちを追い出す彼ら。主人公に感情移入したいところだけど、私は多分、卑怯な方の人間だと思う。

バス会社の重役が映画の都合に噛まれでもしたかのように一人だけ飛び抜けて悪さしかしなかったりとか気になるところはあったし、「最高、待ってました!」という感じには不思議と(本当に不思議と)ならなかったけど、誰でも見られる大作ゾンビ映画って意味では『ワールド・ウォー・Z』よりもオススメできる一本だと思う。

【トランスフォーマー 最後の騎士王】元気いっぱい老人とニンジャ執事

ジョン・シナかよってくらいでかいマーク・ウォルバーグの腕にまずはなんかおかしみを覚える。太すぎ。そこに巻きつく中学生憧れの騎士王の証!!日本的感覚かもしれないけど、もうアンバランスすぎる。あと髪が長いのなんかやだ……。ウォルバーグのどこ行くんだ感は日に日に増している。パトリオットのアイコンになったってことでいいのかなあ。戦闘シーン全体のカロリーが高すぎて終盤の手前には(これからクライマックスの戦闘があるのか……疲れた……)ってなったよ。

ニンジャ執事とその主人アンソニー・ホプキンスはすごかった。ニンジャ執事は「サイコパスだよこいつ」「ソシオパスっす」みたいなやりとりするくらいには言葉が通じなくてやばいんだけど、アンソニー・ホプキンスも大概である。この2人の躁的な感じはむちゃくちゃな映画をさらにむちゃくちゃにしているけどすんげー面白いので映画全体を救ってもいるという不思議な要素。

だからもうトランスフォーマーの映画じゃなくて変な人たちと爆発の映画になったとも言える。オプティマスが画面の中にほぼいないのでますます。IMAXの歴史はベイのトランスフォーマーが重要な位置を占めるけど、その映画史の結論は変な人たちと爆発と最終決戦のような空中分解したストーリーで、それでいいのかマイケル・ベイ。いいんだろうな。

【スパイダーマン ホームカミング】世界は複雑、あたらしいぼくたち

トム・ホランド、すごすぎるのではないか。

しょっぱなから、トム・ホランドの若さぢからに満ち満ちた画面はいつか挫かれるその若さのためにはちきれそうだ。そしてその瞬間は、ごくごく淡々とやってくる。大人は世界が複雑だっていうけれど、そしてそれは本当のことかもしれないけど、単純な解決策に向かってひた走らないことの言い訳にするなら、そんな理解はみんなを不幸にするだけだ。

この映画に出てくる大人はみんな知っている。痛いこととか苦しいこととか。思い通りにならない人生とか。でもそれは僕の人生じゃないんだ、でもあなたの人生を教えてくれてありがとう。

あまりの面白さと、新しい時代への諦めなさと、現実を見ることへの厳しい視線、あらゆるものが観客とそして世界を信頼していて、なんかすげーショックだったよ。イタリアの「鋼鉄ジーグ」の新しさを語ったら、きちんとそういうヒーロー映画がマーベルから出てくる、アメリカってやっぱすごいんですねえ……。

佐賀県の教師が不足している理由のひとつはタブレット導入に伴うベテランの退職もあるんでは

佐賀県の公立学校の教師がもうものすごく不足していることは数年前、私の場合は5年ほど前から聞くようになった。

headlines.yahoo.co.jp

退職していた友人も、学校側から請われて、去年から担任を持たないパートタイム職として復帰している。

事情は色々あると思う。この記事では「少子化を見越して採用を抑えたから」という分析が載っているが、他にも要因として私が聞いた話は、「授業に使用する教材の電子化が原因」というものだ。九州全体の話というよりは特に佐賀県に限定した話になってしまうのだが、佐賀県は一時期、「47都道府県で真っ先にxxを導入した自治体」というトロフィーをとにかく欲していた。知事や教育委員会の上の人にとってはそれは明確に実績になって今後のキャリアに大いに役に立つし、企業にとっては美味しすぎる取引先になるので、とんとん拍子に話は進む。この一件に関して言うなら、都会の人間というのは本当に容赦がないと私は痛切に思い知らされた。

www.saga-s.co.jpタブレットもそうだけど、生徒に生徒を教えさせるというデリケートなことをやらせてしまう、花まる学習会から持ってきた「反転授業」「スマイル学習」はマジでやめた方がいいと思う。)

それらの導入における大騒ぎの経緯は多くの媒体で記事にされているし、その間に消えていったお金の行方や額はいまだに物議を醸している。思想的な意味でも業者を選ぶプロセスという意味でも、話題になった武雄図書館とも地続きな問題でもある。図書館という施設も武雄という町も私にとってはとても大切なので、好き勝手に実験の場みたいに扱われているのはとても悲しい。武雄図書館の問題についてはこちらのブログに詳しい。

nukalumix.hateblo.jp

大したノウハウの蓄積もないまま、佐賀県の学校にはあっという間に電子黒板やタブレットが普及した。

途方にくれたのは現場の教師たちである。ただでさえ授業や日々の学級運営は大変なのに、それに加えて使い方の全くわからないアイテム、その多くは自分たち教師よりもデジタルネイティブである生徒たちの方が使い方を知悉している代物を相棒としなければならない。パソコンではなくいまだに手書きのプリントを作って配布している壮年の教師なども多い。とかく教育(とあと出版)の世界はツールとしてのデジタルの導入に遅れている。それはそれで問題だとは思うのだけれども、タスクを詰め込んで教師が死ぬほど忙しい現場を作っておいて、時代の変化に適応する時間を作って「パソコン操作に習熟しろや」と言うのも酷な話だと思う。30代の私はSNSネイティブの若者たちのコミュニケーションにはとてもじゃないけれど一体化できないし、だから40代〜50代の人たちをパソコンができないのねと馬鹿にする資格は私にはない。イライラすることはあるけど明日は我が身っていうか今日すでに我が身なのだ。

で、教師不足の話に戻ると、ちょうどそういった電子化の導入があった頃、佐賀県の教育の現場にいた冒頭の友人とは別の友人から、「50代のベテランの教師が続々退職している」という話を聞いたのだ。友人当人もそれほど電子機器に親しいタイプではなかったので、退職するまではないにしろ、困り果ててはいた。もちろんそれは友人の印象の話であり私にとっては伝聞なので「続々」というのは事実に反するかもしれない。

ただ、そういうものの導入を決めた県や市の偉いおじさんたちがデジタルに強いかといえば多分全然そんなことはないだろうなあっていうのもわかる。ああいう人たちは自分でメール打たなくていい場合も多いし。そんな彼らが「これからの子供達はデジタルっしょ。そしてそんなふうに変わっていくこれからの時代で最初にタブレット導入したっていう実績が欲しいなあ」と言い出しても、現場で対応する責任者はその人たちと同年代かちょっとしたくらいのやっぱりそれなりに歳をとった人たちだったりする。

伝聞とそこから導かれた妄想で話をしていて申し訳ないけれど、あの時の混乱がなければ現在の状況は今よりはもうちょっと良くなっていたんじゃないかなあ、と私は勝手に思っている。

そんなこと言ったって、プログラミング教育とかで日本はどんどん置いていかれるじゃないか、そんなんじゃ世界に遅れをとるばかりだ、と言ってくる人たちもいるけど、やっぱりそんなこと言うんなら、大勢の生徒に一度にそういう分野の知識を教えるカリキュラムを作る方が先だよ。

教育というのは専門的なプロフェッショナルな分野であり、教えるという行為には訓練が必要なもののはずだ。IT企業の技術者さんとか仕事してその分野に詳しい人じゃなくて、ロウティーンの子供に何かを教えるロジックなりメソッドなりを持っている人。もし〝今〟、その指導者がいないと慌てるのだったら、そういう人材を育成する道筋を作るところからスタートすべきで、とりあえずタブレットを配れば教育がスタートするっていうのは液タブ買えば絵が上手くなるみたいな話で絵に描いた餅だ。でもお金を使う回路として簡単だからやっちゃいたいんだろうのもわかる。だからせめて部外者でただ思い入れのあるってだけの私は文句言っとこうと思う。

自分は勉強したくないけど子供には勉強させたいっていうのは、子供に教育を与える義務/子供が教育を受ける権利とはまた別次元の話でちょっと大人の傲慢を感じる。大人だっていくつになっても勉強していいし。この点は自戒も込めて、頑張ります。