おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

外国人レスラーへの日本のプロレスファンの態度から見る日本におけるいろんな問題

日本は、世界中のプロレスラー、あるいはプロレスファンにとっての憧れの土地である、と私はあえて断言する。なぜならわりといろんなレスラーがそう言ってるから。
……まあ、暴論っちゃあ暴論なんだけど、実際のところ、日本人が考えてる以上に後楽園ホールとか両国国技館とかは海外のプロレスラーにとっては重要な場所であることは間違いない。彼らはどこでどう入手したのか知らないけど日本の試合のビデオめちゃめちゃ見てる。

そんなプロレスが好きな日本のファンは、一見、外国籍のレスラーに対してとても温かい声援を送るのがとても好きなように見える。

2018年かな?のWWE両国大会で、シェルトン・ベンジャミンが出場した時、つい最近まで彼は鈴木軍の一員として日本ですごく活躍していたから、みんなすごく嬉しかった。おかえり、と思った。たくさんチャントを飛ばし、たくさん拍手し、たくさんレッツゴーと言った。だからと言って、外国人レスラーは日本の観客にとってウェルカムだよね?とは私は思えなかった。むしろその盛り上がり方は、あまりにも日本国で暮らす日常のある側面を切り出しているような印象を与えて、言い知れない居心地の悪さを感じさせた。
言葉にするとそれは、「お客様としてその場限りの試合をするから」こその、他人でいてくれる限りの熱狂。

だってプロレスファンの私たちは、例えばG1でガイジン対ガイジンの試合になったら、その時間がトイレ休憩とばかりに、ぞろぞろ席を立つじゃない!英語のマイクに、ブーブー文句言うじゃない!「日本語で喋れ!」なんて定番のヤジが、どれだけ野蛮か!

もちろん興味のない試合には席を立つのは自由だし、エンディングのマイクが終わるまでは帰らないのがマナーとか言う抑圧的なファンに対してはむしろ私はブーブー文句を言うことが多い。でも、一つの流れとして捉えられる観客全体の大きな動きは、それ自体が論じる価値のあるものであるのも事実なのだ。いろんな会場にプロレスを見に行く醍醐味がそこにはある。と私は思っている。あと、プロレスを通してしか私にはいろんなものが見えないという症状もある。というか世界にあらわれる良いことも悪いことも人の肉体を通して抽象化し、理解の範疇と理解の埒外に放り投げてくれるから、私はプロレスを愛しているのだ。私がプロレスを告発するとしたら、私はそのとき世界を告発している。社会の縮図、なんていう言い方はとっても大嫌いだけど、世界を身も蓋もなくする力こそ、プロレスの価値ではないのだろうか。

そこでふと、思い出すのが、新日本にいた頃のプリンス・デビットが今やどこの団体の持ち物かすらわかんなくなってしまったくらい大流行りしてしまったバレットクラブを結成した当初のことだ。
ゴリゴリのベビーだったデビちゃんことプリンス・デビットは、ヒールターン当初はよくわかんないストーリーを一人で演じていた。徐々に悪くなっていった彼の動向や漏れ出す本音は当時、日本のプロレス界ではプロモーションツールとしてはまだあんまりうまく活用されてなかったTwitterで少しずつ吐露されていた。そこで彼はいろんな選手を挑発していた。マイクやTwitterでの英語のアピールは、あんまり日本の観客には刺さらないまま、デビちゃんの人相はどんどん悪くなっていき、いつの間にかバレットクラブは稀代のガイジンヒールユニットになった。彼らに対する観客の怒りは本物で、現代の日本の会場ではけっこう珍しい「観客がリングに物投げるやつ」をはじめて見たのは、私はバレットクラブの介入のシーンだったくらいだ。そりゃあそうだ。お金払って正々堂々とした試合で強い方、背負ってるものが重い方が勝つ最高の瞬間を彼らは見に来てるんだから。
ぶっちゃけ、一本の大きな流れがあって彼らはそうしているのだ、みたいなストーリーを新日本のフロントサイドはアピールしなかった。なんか知んないけどヒールターンしたデビちゃんが他のガイジンレスラーと一緒に暴れてBOSJはバッドエンドだ〜!みたいなうっすらとした混沌と観客のヒートがあるだけで、棚橋やオカダやそれよりちょっと後だけど内藤みたいに、彼らのストーリーをバックアップしなかった、ように私には思える。
でもそこには確固たる彼らのストーリーがあったはずだ。そして冒頭で紹介した、シェルトン・ベンジャミンの凱旋来日とその歓迎を併せて考えた時、私の中にはひとつの答えが生まれる。

彼らは、プリンス・デビットは怒っていたのだ。
日本のプロレス団体は、とても冷たい。日本の観客は、とても冷たい。
うわべでは歓迎してますよ、とか、ようこそ日本へ、とかニコニコして言うけれど、いざ実際に彼らが団体内で活躍しようとしたりベルト戦線に絡んだりベルトを取ろうとしたりすると、微妙な表情を作って「でも、マイクで何言ってるかわかんないし……」とか言う。「いつ日本からいなくなるかわかんないし……」とか言う。そしてガイジンのプロレスは大味だとか、ディテールが大雑把だとか理由をつけて、真剣に彼らの試合を見ようとしない。トイレ休憩みたいな扱いすらする。

結局彼らは、「わざわざ日本に来て」くれて、ガイジンのままでいてくれるガイジンレスラーが好きなだけなのだ。彼らが日本の団体の内側にいて日本人と同じような扱いを受けたり活躍をしたりすることなんざ、望んじゃいない。むしろ、そんなことになったら微妙だった表情にはまともな嫌悪感が現れてくるだろう。
内に秘めた怒りをあらわにしたプリンス・デビットはモンスターとなってその皮膚の上にくろぐろとまがまがしい自我を描いた。
私はもういなくなるよ、さよなら。
その言葉を胸に秘めて、彼が田口に負けた時、会場の観客は彼を引き止めた。行かないで、デビちゃん!彼の下まぶたには堪えきれない感情が赤い色となってほろほろと載っていた。でも彼は行ってしまった。だって、口だけだから。会場のすり鉢状のぐるりで彼を囲んだ私たちが見せる、彼の旅立ちを惜しむ情のようなものは、他人でいてくれる限り、私たちの立場を脅かさない限りにおいてしか、現われないから。もう思い知っているから。

テレビで毎日のように流れる、「日本スゴイ」「日本に来たい外国人」の番組を見るとだから私は思い出す。汗で擦れてペイントがにじむデビちゃんの後ろ姿を。バレットクラブは、短くて激しい告発の火花だった。意味を汲み取る前に私たちはまたたきで見逃してしまったけれど。

敗戦の痛みから立ち直るために力道山の空手チョップが必要だった(という物語によって固定された)あの頃から何一つ変わらないでいた、変わらないでいてしまった私たちは、まるで置いてきぼりにされたみたいだ。その気分は、擦過傷のような痛みとかさぶたみたいな痒さを残していく。
もちろん海の向こうのWWEでは、白人選手に偏ったベルトのやり取りが批判されてもいることはわかっている。コフィがチャンピオンですごいだなんて、2019年に展開するストーリーであっては、本当はいけなかったのだ。もっともっと、早くやれたはずなのに。でも、私がいるのはここで、ここはプロレスがとっても盛んな場所で、ものの見方を教えてくれる場所だ。そこで見たもののことを、そこで試合をしている幾つかの肉体が教えてくれるもののことを、私は忘れたくはない。そこから始めることができるなら、やはり私は、プロレスのそばにいる。

フランスの実写版シティハンターを見た話

先日乗った飛行機でフランス版シティハンターこと『ニッキー・ラーソン』を見たのでどういう内容だったか書く。当然ながらネタバレだがあまりにも日本語の情報がなさすぎるので日本語の情報があってもいいだろうと思うので書く。仕事しながら英語字幕で見たので細かいところは間違ってるかもしらん。『世界の果てまでヒャッハー!』のチームの作ということだけど、それを考えるとけっこうかなり真面目に作られている印象。途中で謎の一人称アクションとかある。香との共闘シーンは原作でもそうだけどやっぱりめっちゃいい。というか獠と香の関係って大人になってみると不思議な感じがするのだが、漫画としてはすごく魅力的で沸き立つ感じあります。

 

あらすじ:
ニッキー・ラーソンは街のボディガード。相棒はローラ。依頼のサインは掲示板に書かれたXYZの文字。ニッキーの相棒はもともとローラの兄だったが、誕生日にバーから帰る途上で「黒い手の男」に殺害されてしまう。ということでそれ以来、ニッキーはローラとコンビを組んでいる。
ある日、舞い込んできた依頼は「惚れ薬的な効果を持つ香水」の運搬(保護?)。しかし折悪しくニッキーは香水を嗅いでしまい、依頼人のおじさんに惚れてしまう。なんやかんやで香水は盗まれてしまい、惚れ薬の解毒薬は惚れ薬の中に入っているという謎設計だったため、依頼の達成とニッキーの解毒のために香水奪還に奔走する。ニッキーは劇中ずっと依頼人の男に惚れているという設定なのでちょいちょい熱い視線を交わしたり自分の裸のいい感じの写真を依頼人の男性に送ったりする。
そこに絡んでくる海坊主ことマンモス。マンモスとニッキーは知り合いじゃなさそうな感じ。病院で患者がペニス丸出しで寝ているところでニッキー・ラーソンと喧嘩になって銃を取り合ってペニスを掴んでしまったりする。あと間違って香水を吸ってしまったチューリップ帽の男はローラに惚れてついてくる。こいつはなんか目立つけどオリジナルっぽいフランスっぽいキャラ。
香水を盗んだのは誰なのか? ローラの兄を殺した男の話は回収されるのか? とかそんな感じで話は進んでいく。

 

・お話はどの辺の位置?
→なんと槇村兄殺害からその真犯人は誰かまでやってしまうので丸っとお話はまとまってる。テレビスペシャルみたいな感じではない。
・そもそもどんなテイスト?
→お色気多めのVシネ的雰囲気。パンツとかおっぱい。大作感はないけどそれはそれでそれっぽい。察してほしい。
・効果音やBGMは?
→ちょいちょいアニメから引用されててピキピキーン!みたいな音もあるよ。
・ハンマーはある?
→リアルなやつと漫画っぽいやつ両方ある。100tは人間には無理という判断を感じる。リアリティというやつか。
もっこりはある?
もっこりはないけどムッシュー・もっこりのモザイクなしペニスはある。もっこり回収。
・後ろを通過してカーカーするカラスはいる?
→いる。実写。
アスファルトタイヤを切りつける?
アスファルトタイヤを切りつける。もちろんTMネットワークのが。2フレーズくらいだけど。

 

結論:全体的に原作テイストをものすごく再現してやろう感があり、海坊主にまつわる脚本のツイスト感もなんかシティハンターっぽい。ただ、ペニスの出し方はフランスだ。もしくはコロコロコミックみたいだ。ものすごく面白い映画!名作!という感じではないけど、アニメ版が人気なんだなーとしみじみ思う内容。ネットフリックスとかで配信しないかなー。

【インクレディブル・ファミリー】あっという間に今になる

劇場で見た日の夜にテレビで前作を放送していて、グラフィックのあまりの差にたいそう驚いたのだけれど、それ以上にテーマ性の差っていうか、こんなどうでもいいことで映画一本作ってたんか!という驚きで震えた。中年太りギャグとかマジでどうでもいいし、全然笑えなかったし、とにかくびっくりしたよ。こちらの変化に。人は変わる、世界も変わる。

いやどうでもよくないけど今このテーマで映画作ったら失笑されるには十分な「中年の悲哀」「過去の栄光とどう向き合うか」っていう日本だと『終わった人』とかでまだ作ってましたねっていうことは置いておいて、だから余計『インクレディブル・ファミリー』の現代性が際立つことにもなっていて、この対比は意図的にやってるんだと思う。さすがに。

わりと序盤はクソなミスター・インクレディブルをほっておいて、そもそもイラスティ・ガールのほうがヒーローとしてだって有能じゃん……ちゃんと周りのこと考えてるし……と当然の判断を下される2018年の夏。みんな知ってたはずのことだけど、なんだか見えてなかった判断をアニメで見る2018年の夏。子育ては大変だしヒーロー活動も大変だし、その役割は男女によって割り振られるべきじゃない。時には家の外の人にも頼ろう。あと算数をわかるようになっておこう。

10年後、この映画もまた「こんなテーマで一本の映画が成立してたのか……」となるのかな。今回感じた変化を私は好ましく思っているけど、10年後もそうだといいな。

【ミッション・インポッシブル フォールアウト】トム様はプロレスラー

『ミッション・インポッシブル』シリーズはまあトム・クルーズの命がけスタントを虚実を混じり合わせながら楽しむのがお作法なんだろうとわかってはいるんだけど、宣伝とかもそれを狙ってるんだけど、それってあんまりじゃないですかね、と思わざるを得ない、というかせめて思っておかなければいけないんじゃないの、最低限の倫理観として。現実的に命がけな無茶苦茶なスタントを楽しむっていうのはさ、つまりはトム・クルーズがいつか死ぬのを、見守っているのと同じじゃあないのかな。もちろん人はいつか死ぬし、本人は死なないつもりで、やりたくてやってるというのはわかるよ。でもそのことと、これ実際にやってるんだぜスゲー!って楽しみを見出すのは全く別のことじゃないのか。この悩みってぶっちゃけプロレスラーの無茶な技とそれを楽しむプロレスファンの構造とまったく同じで、だからトム・クルーズはプロレスラーってことも言えるな。

アクション映画の標準としてはやはり出色なシリーズで、サイモン・ペッグは活躍控えめだけどそれでも任務の解決に関わると一気に奥行きが増して本当に尊い。おとぼけエージェント、ヘンリー・カヴィㇽのおとぼけ任務ぶりはおとぼけだけど、キャラクターを掘り下げようとされてはいなかったのはまあ、イケメン優秀枠はトム・クルーズでぎゅうぎゅういっぱいなのだろう。
約束されたツイストはもはや予定調和と言えなくもないけれど、クライマックスは本当にドキドキしたよ。あとプルトニウムぺたぺた触るのはおっかねええですけど、そんなもんなんです?

内容的にはかなり直接的に『ローグ・ネイション』後編って感じ。シリーズものとしての落とし前をきちんとひとつずつ付けていくのは、もう本当にこれはトム様のライフワークなのだなあ。

あ。あと、ジョン・シナが『ネバー・サレンダー』で見せた椅子ブロークンエスケープもあるぞ!

【ランペイジ 巨獣大乱闘】振りきった『ザ・マミー』

近年のロック様のご活躍ぶりから勝手に「ロック様はアメリカのティーンエイジャーのアイコンになろうとしている」説を提唱している。そして公開される主演映画を見るたびにその確信は強まっていく。この前DVDで見た『セントラル・インテリジェンス』もまさしくだったし。スパイものなのに高校時代の思い出を回顧するシーンが30分くらい続いてびっくりしたよ。

どれも共通しているのは今時のブロックバスターの水準からすればものすごくこぢんまりしているし、アクションもそんなに大袈裟じゃない。ちゃちゃっと作って、重いテーマよりも観客のあるあるとか時代に寄り添う感じ。で、たぶんその層っていまかなりロック様的には狙いやすいんだなーっていう気がする。MCUはちょっと複雑すぎて感情移入しにくいよねーっていう若者への目配せというか。

でも映画のプロットの印象はなぜか知らんがトム・クルーズの『ザ・マミー』を彷彿とさせる。飛行機墜落からの無事だったねーシーンもあるし、国の機関的な人も出てきて協力してくれるし。『ザ・マミー』もこんくらい振り切ってやっていけばよかったのかもしれない。MCUにはどう頑張ってもなれないわけだし。

お話はもう本当にひどい。腹を撃たれても「急所を外れたので全然平気」つってふつうにアクションに復帰するロック様とか、この前のレッスルマニアのシェーンだってだってもうちょっと気を遣って痛い感じの雰囲気だしてたってくらいひどい。

敵役も近年稀に見るアホっぷりだし、思わせぶりに出てきた傭兵の扱いもひどい。序盤に出てきた動物保護センターの新人とか同僚に至ってはロック様のキャラクターを説明する役割を果たしたらもう出てこない。ちょっと適当すぎるのではないか。でもそのぶん、『ザ・マミー』にあった続編への目配せというか思わせぶりがなくて、ものすごくスッキリ見られたし、まあ適当に楽しんでくれたまえみたいな開き直りは素直に受け入れられたのだよね。

ゴリラの造形もよかったし、最後のゴリラの下ネタには思わず「ちょっと!」と声が出てきてしまったくらいに愛着が持てるタイプのゴリラ。ゴリラの時代が来つつある。ゴリラに似過ぎているジョン・シナの時代の到来も近い。それはないか。

【ジュマンジ ウェルカムトゥジャングル】あっちのキリトはロック様

めっちゃアメリカでヒットしていると聞いて「どんなんなん??」と思ってたけど完全にティーン向けのライン。言ってよ。ハイスクールミュージカルとかそのへん。

ディズニーチャンネルとかニコロデオンとかそのへんのドラマのその先くらいの延長で、しかも内容がソードアートオンラインだから、あーなるほど、ラノベ的な需要の受け皿がこういうところにあるのかアメリカ、と妙に納得してしまった。キリトに憧れるかロック様に憧れるかの違いでしかないし、それって違いというほどの違いじゃないよね。

そう考えてみるとロック様は主演だとそういうラインの映画ばっかり出てるような気がするし、完全にそういう戦略なのだろうなあ。他にいないもんね、ティーンの憧れられるマッチョ俳優。

だから映画の内容もゆるゆるだったけど、これは私が文句言う筋合いのないゆるさだっつーことですね。リスポーンの位置とか、かなり大事な要素なのにだいぶ適当だったし。キメ顔ギャグは最高に好きなのであと3回見たかったです。

【リメンバー・ミー】忘れられたら終わりだなんて

まずはアナ雪の短編。短編っつーか22分。アナとエルサのイチャイチャ。これはもうクリストフの田舎もんいじりがマジでむかついた。ラップランド人をモデルにしてるキャラクターにすることかね。その食文化とか習慣を伝統として受け入れずに下品なものとして下位に位置づける態度はマジで普通に差別だからね。結局アナとエルサは汚れ役をやんないから、ハンスとかクリストフとかに道化させておけばいいやみたいなやり方は本当に下品だと思うよ。お貴族様はいいご身分ですね。

で、本編。よくできた映画だなーと思うけど、私はモアナほど全然ハマんなかった。なんでかなあと思ってたけど、モアナはプリンセスの定義を新しくしたけど、リメンバーミーは古い価値観を良きものとして素朴に肯定したからかなあと思ったよ。なんか、別に新しいもの見た感じはねえなあと。これは多分ある種の経営判断的なものがあるのかなあと思ったのは、やっぱりファミリー向けの映画を作ろう、というのはディズニーの至上命題であるんだろうし、南米や東南アジアなんかの、家族という単位がものすごく強い社会に刺さる映画を狙ったんだろうなという部分。日本なんてもはや市場ですらないし、アメリカにだって限界があるし、あと「アバローのプリンセス エレナ」なんかはちゃんとラテン系プリンセスやってスペイン語圏ではきちんとヒットしてるし、ポリティカル・コレクトネスを考えた上でエスニシティをピンポイントで攻めるからこその大きな稼ぎっていうのはあるからね、実際。ということをつらつら考えたけど、やっぱりちょっと窮屈だなあ、どんなに美しくても、あの死後の世界は。たった一人で誰からも認識されずに生きている人はどこかに確かにいるはずだし、その生き方って哲学的ですらあるけど、家族という共同体によって支えられている世界というものの見方ではマジで存在しないことになるのも頷けるし。木が倒れた時にその音を誰も聞いていなかったとしても、やっぱりその木は倒れたんだと、その木だけは思ってもいいじゃないの。

ってか、あの悪い人は人を殺したからもちろん悪い人なんだけど、人気者になったのはあの人の才能だと思うので、その栄光まで否定するのはかわいそうだよね。猪木は虚飾のスターかもしんないけど、それでも自身のカリスマであそこまでのことを成し遂げたんだしさあ。

あと、あのー……オチっていうか悪い奴の悪事が露見するくだりが「ズートピア」とおんなじ……。