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おかしくはないです

嫌いな言葉は「多幸感」

【レゴ(R)バットマン ムービー】ロブスターでは癒せない

最高すぎる映画こと「レゴ(R)ムービー」のスピンオフ的な続編という理解でいいのだろうか?
煙や水飛沫までレゴで表現していた前作と比べるとレゴっぷりはやや後退しているように見える。そしてそのぶん「レゴが!動いてる!」というワクワク感も後退気味。
出てくる敵はヴォルデモートにサウロンともう絶対勝てない感じがするが、このオールスター感はとってもよかった。前作に続いてレゴ(R)ならではって感じだ。

バットマンの孤独、失うくらいならもう何もいらないとして他者を拒絶する彼が家族をもう一度得ることができるのかっていう話なんだけど、そのくだりがけっこう冗長で、(言いたいことはわかったから早く次のシーン行ってくれんかな)となる。ロビンとの擬似親子的な関係性よりもやっぱりジョーカーとのライバル兼喧嘩友達兼遠距離恋愛の恋人的な距離感の方が、この年のわたしにはグッとくる。感情や絆ではなくわたしがわたしとしてわたしを把握するために必要な他者とのつながり。あとヘビピエロ(こわい)。好きな映画は「ザ・エージェント」。

字幕版の上映の時間が合わずに吹き替え版で鑑賞したけど、久々に子安の声を聞けたのでなんかよかった。いい声優。ギャグもテンポよくていい感じ。ただ小島よしおは本当に良くない。演技は全然問題ないんだけど、「SING」の時の斉藤さんの炎上どころではないやりすぎぶり、上映前の「ワンダーウーマン」の予告のクソぶりと合わさってワーナーの映画担当の日本の人は本当にダメなんだなと怒りよりも先に脱力が来る。誰も喜ばないし、真面目な小島よしおだって要求されたことをプロとしてやっただけだろう。もういい加減にしてほしい。

女子プロレスに関する私なりの偽史<全女史観・長与史観>と差別について

女子プロレスは誰のものだろうか?
もちろん、女子プロレスラーのものだ。
でも、おそらく、そうでない時代があった。

ある作家が差別の話をするときに小人プロレスの話を持ち出して人権団体の圧力のせいで彼らが職を失ったという謎の主張をして「?」となったのだが、そこに付帯して発生したやりとりで少し気づいたことがあったのでちょっと書く。

女子プロレスと小人プロレスは、つまりは全女というパッケージは、見世物だったのだ。
もちろん試合をするレスラー当人は、純然たるプロ意識を持って、素晴らしい試合をやろうとしていたはずだし、実際素晴らしい試合をやっていた。ルチャの動きはプロレスをはじめて見る人にも驚きと感動を与えるが、おそらくそれと同じかあるいはそれ以上の説得力を小人プロレスは持っている。人間が当然してしまう反射行動を膨大な練習量と無茶とも言える反復で封じ、〝見たことない〟動きをする。巨大で筋骨隆々なものを愛でる方向性とはまた別の、しかしそれは本質的には同じだ。弱き存在であるただの人、でないもの。人ならざるもの、超越者、あるいは神がリングの上には現出する。ジャイアント馬場の威容が神を連想させるのと同じように、腕を胸の前で組んだままロープに投げ出され、しかし何事もなかったかのようにいつの間にか両足で着地をして戦いを続ける。あんなこと、普通の人間にできるはずがない!

女子プロレスは見世物だ。それは女子レスラーのしていたことが見世物だったわけではなく、その興行を仕切る人たちと、それを見る観客の視線がその場をそう規定していたからだ。戦う女。いがみ合う女。美しくない女。それは社会の規範から外れた異形であり、滑稽な、いずれは消えてなくなるまぼろしだった。今でもこういう視線を女子プロレスに投げかける人はいっぱいいる。女子プロレスをはじめてみた男性から「強くて美人なんて、かなわないな〜」とかクソみてえに中身のない感想を聞かされることはたびたびあるが、女性に対しては基本的にかなう前提で世界を見ているんだなこの人は、とわかってとてもいい。

しかし長与千種の自我は観客や松永兄弟の思惑などいとも簡単に薙ぎはらうほどの異形だった。
ソフトボール部で下級生に慕われた長与は人を惹きつける天賦の才とそれを分析し使いこなす賢明さをリングの上で大いに発揮した。その自我はタッグパートナーであるライオネス飛鳥を真っ先に喰いちぎり、しかし命名されえぬ抑圧の中でかろうじて息をしていた少女たちに希望を与えた。「あのひとは、わたしだ!」
『1985年のクラッシュギャルズ』の記述を信じるのなら、長与千種はそもそも女子プロレスのマーケットの様相すら変えてしまった。客席の少女たちは「わたしたちのための女子プロレスが理解できない」他の観客を追い出し、リングを彼女たちの祭壇にしてしまった。松永兄弟が作り出した、若い女性たちをいがみ合わせて成立させていた見世物小屋は、長与千種の劇場になってしまった。
長与千種が立ち上げた団体であるマーベラスの興行を観戦するのはそういった、長与の定義した全女の残滓がきらめいてとてもエキサイティングな体験なのだけれど、長与慣れしていないわたしにはかなりずっしり尻に来る。大仁田の興行に出てミックスドタッグ電流爆破しているのを見ると大仁田の自我と化学反応を起こして(大仁田もまたすごいとしか言いようがないほどすごい)(詳しい人から「猪木と同質の何か」と説明されて合点がいった)お酒を飲んでもいないのに謎の酩酊が引き起こされる。いっかい見てみるのがオススメだよ。

お金が儲かるのなら松永兄弟はまあいいだろうと長与千種と交渉し、そして興行的に不要とされる小人プロレスを切った、と考えるのはフロントの思惑を想像するプロレス脳でしかないのだけれど、おそらくそこそこ正しい。いくつかの記事を読むと、同時に「怪我や死亡のリスク」についても言及されているものが見つかり、確かに、<ある種の疾患を持つ人をリングに上げて事故が起こった時の責任>に対する世間の反応を考えた時に、フロントが及び腰になるのも納得がいく。プロレスに怪我やアクシデントはつきものとはいえ、そういった事態が起こらないようにフロントが全力で対策をするのは当然であろうと思うし、プロレスが興行である以上、そのリスクは負えません、カードは組めません、と判断するのも理解できる。しかし。

たとえば「小人プロレスは身体的に生命の危険がほかの選手より大きい」という言説を論理的だとして許容した場合はどうなるか。「女性は子供を産むための体の作りをしているのでプロレスをやるには身体的に生命の危険が大きい」という言説を許容することもあり得るだろう。そして、「アジア人はその他の人種と比べて骨格的に弱い体つきをしているので身体的に生命の危険が大きい」という言説もありうる。どのプロレスの分野でも怪我人は常に出ているのだから、「身体的に生命の危険が大きい」という主張を裏付ける証拠には事欠かない。ここには論理的な主張などない。境界線をどこに書くかの恣意的な判断があるだけだ。差別とはそういうことなのだろう。差別をしない人間などいない。ただ、自分がどういう境界線に蓋然性を感じているかに気づく瞬間を増やさなければいけないのは、確かなことだ。
重大な怪我をしたり亡くなってしまう選手は今でもいるのに、そいつらは健常者だからリングに上がれるのか、と問われれば、何も言えない。それは差別だ。だからいわゆる障害者プロレスと言われる幾つかの団体の興行は時間が許す限り行きたいと思っている。応援したいと思っている。プロレスファンの実現できるバリアフリーとは、そういうことだと思うから。

単なるいちプロレスファンでしかないわたしはプロレスの試合を見に行って応援し、いい試合には歓声をあげ、つまらない試合には嘆息する。でも、わたしは常に、どんな時でも、プロレスの側に立つつもりだ。たとえばプロレスが弱きものを抑圧するように振る舞うならば(っていうか振る舞ってんだけど)(……)、なんか悲しくなってきたけど、でも、わたしは時にプロレスのなかの不誠実を攻撃するかもしれないけど、常にプロレスの味方でありたい。プロレスがリングの上に立つ勇気ある人のものであり続けることを心から願う。

【はじまりへの旅】インテリヒッピーなれのはて

変な教育したがる人ってなんで変な教育したがるんだろうと思っていたけどその謎が解ける映画だ。
主人公のヴィゴ・モーテンセンは隔絶された森の中で6人の子供を育てている。彼らは学校に通っていなくてヴィゴの超スパルタ教育によって肉体面も頭脳面もスーパー超人的でありまあ古代の哲学者が言った哲人にかなり近いものを目指して育てられている。思想的にはもちろん反体制であり資産家ファックなのだ。
映画が始まった時点で母親はおらず、彼女の死が知らされることで物語は始まる。どうやら彼女は長く双極性障害に苦しんで入院中だったらしいのだが……。

子供たちを隔離して育てるって虐待じゃないの?という疑問符は当然回収されて(でも途中まで「ヴィゴは正しい」の一点突破でこられたらどうしようとずっと心配してた。それくらいヴィゴのやることには隙がない)、対立者として母親の父親、つまり子供たちの祖父が異論を唱える。ヴィゴに隙はないが、父親はまったくのド正論なのだ。世間一般の常識的には(つまり一般的な普通の教育を支持する立場からすれば)父親の言うことが正しい。
けれど、母親はおそらくそんな父親に傷ついて傷ついて、自分なりの人生を構築したいと考えて、ヴィゴと結婚し、子供たちを変なやり方で育てようとしたのだ。

家族の旅が進むにつれて明らかになるのは、父親たるヴィゴもヴィゴと意気投合したと思われる母親もひどく社会によって傷ついてしまっていたということだ。変な教育が変なのは、教育というものの側面が社会性を育てるために用意されたものであるという点を嫌うからで、その判断がそもそも変なのであり、教育の目的そのものと矛盾しており、だから変に見えるのだ。そのせいで彼らは蒙を啓いた結果得られたいくつもの知識を運用しながら、なぞっている思想はまるで蒙そのもののように見えてしまう明らかな矛盾する態度を取っている。その蒙のような部分は、傷ついた彼らのまだふさがり切っていない血の滴りなのだろう。スピリチュアルとか。非科学的とか。でもそういう彼らの必死な防衛反応を、わたしはとても笑う気にはなれない。

ヴィゴは教育で得られた知識そのもの、つまり今の自分を形成しているものはとてもとても愛している。高等教育を受けてよかったと思っている。得られたものを肯定し、得るまでに被った苦しみを否定する。その心の動きこそが、変な教育までに至る回路なのだろう。私はヴィゴほどのインテリジェンスは持ち合わせていないけど、その思考じたいは、分かる。

物語の落とし所はいい塩梅に見つけられて、中盤までのイヤ〜な予感はいい意味で裏切られた。正直、ヴィゴ夫婦の思いもたいそう理解できるし資産家ファックなので、手酷く彼らが否定されたらそれはそれで非常に後味悪かったと思う。低予算で撮られていろんなところで絶賛されたというのもなるほどな話。いろんなところに目配せが効いて、バランスのとれた映画だなあ。

【おとなの事情】告発されるふたつの抑圧

なかよしな3組の夫婦と離婚ほやほやのひとりの男、7人がホームパーティ的な夕食の場で「今だけスマホをオープンにしよう。メールが来たら読み上げる。電話が来たらスピーカーフォンで話す」という地獄のようなアイディアを実行に移し案の定地獄のような状態になるお話。
私たちって秘密のない関係なのってニコニコしてるカップルが気持ち悪く見えるのは個別の人間性というやつをあまりに低く見積もりすぎているんではないか?と疑ってしまうからで、さいきんだと『ベイビィ・LOVE』の続編読み切りがそんな感じだった。ヤングな恋愛ではそれが理想なのかもしれない。
他人のメールを覗き見て喧嘩になってしまうのはその人が不誠実なことをしているからとは限らない。スノーデンは「プライバシーを奪われることはあなたがあなたであることを奪われること」と言っていたが、それゆえに恋愛関係では特に相手の秘密を知ろうとし、縛ろうとする。ただ愛するゆえにと偽って。私たちは他人から奪いたくて仕方がなく、そのための口実としてはもっともパーソナルな関係性とされる恋愛というやつはめっちゃ便利すぎるのだ。

個人の関係のうちで処理できることのうち、しかしある人の秘密だけは本来ならば秘密として後ろめたさを感じるべきではないものだ(と断言しているわたしもおそらく不誠実だね)。しかしとあるトラブルによってそれは夫婦間の不誠実としてデコレーションされ、そのトラブルに乗じてその秘密そのものもモラルに反したものとして扱われてしまう。
ここで暴かれていることのとんでもなさはちょっとした告発で、つまり差別というやつは、偏見によって対象に強制的に秘密を持たせるものでありつつも、その上、その人が秘密を持っているということで社会に対して不誠実であると裁く、二段階での残酷さを有しているんである。
そして後者の不誠実さは誰しもが持っているがゆえに(不倫から配偶者への不信まで)、「あなたがXXだから責めているのではなく、あなたがそれを言ってくれなかったからわたしは非難しているのだ」と、社会が偏見を持っていることの加害性をうまーいこと隠蔽してしまう。あなたもわたしも、同じように悪いことしてるもんね、わかるよ、つらいよね。って全然違うっつーの。
っていうかあの結末はああしなければいけなかったのは理解できるしそれでいい問題ないよって思うけど、マリカの件だけはどうすんだよそのままじゃ駄目だろ感がすごい。しかしこれもわたしのバイアスなのだろうか……。いやいや!

【キングコング 髑髏島の巨神】髑髏島の戦い

もちろんプロレス映画だ。

コングは最強にして孤高のレスラー。その怪力で木を切りまくっていたアンドレ・ザ・ジャイアントを彷彿とさせ、まだどのプロモーターにも発見されていない髑髏島の神秘。
優しく正義感の強いコングは島の秩序を守る神にも似た存在として君臨し、理不尽な破壊を生み出す怪物をその手で成敗する。ときに傷を負い、ときにタコを食い、その野趣とつぶらな瞳とシワシワでツヤツヤの鼻先で見るものを魅了する。そんなコングと出会ってしまったちっぽけな人間どもよ。
ラストの戦い、ノーDQマッチ(反則がない試合)なのをいいことに噛み付き攻撃を繰り返すオオトカゲ。『ヘラクレス』のロック様なら上顎と下顎をつかんで真っ二つという戦法も取れたのだが、怒りのコングがとった選択肢は凶器攻撃だ。そう、反則には反則を。リングにあるものすべてを使って観客を驚かせてこそ真のレスラーと言えよう。大きなもの、強いものが圧倒的な質量と暴力と創意工夫で存在を誇示する瞬間の興奮に優るものはない。

一方で、髑髏島の脅威はベトナム戦争におけるベトナムのひとびとでもある。危険なぞ何もないとベトナムの地を舐めくさっていた米兵は大切な戦友をひとりまたひとりと失っていく。文明を知らぬ野蛮な化け物め!と怒り狂うマザファッカ隊長。しかし本当にそうだろうか?という絶対必要な視点も欠かさない、ベトナム戦争映画のある種のスタンダードもきちんと踏襲しているので安心設計。ヘリから望む走り去る兵士の姿なんかほとんどデジャヴ。

【ラ・ラ・ランド】夢だなんだと言うやつは

『セッション』が全然ダメだったので心の準備は欠かさなかった。とはいえパワハラがテーマだった『セッション』と比べてかなり見やすいし、楽しく見れました。デイミアン・チャゼルis同い年(……)なので、言いたいこともちょーわかる。チャゼルは上の世代にうんざりしている。

 

正直、この映画を見て菊地成孔が怒りまくるのもわからないでもないし、彼のレビュー

realsound.jp

の半分くらいには同意できる。特に、セブの言う「本当のジャズ」の中身のわからなさは、ジャズを生業にしている人には噴飯物の適当さだろう。それはジャズに対して無知というわけじゃなくて、映画でやりたいことのためなら潔くそういう部分を切り捨てることができるということで、でもその思い切りの良さを思い入れのなさとして本職の人が感じてしまうのは仕方のないことだ。


チャゼルにとってジャズもミュージカルも自分の主張を擬装するための手段でしかなく、だからミュージカル警察が『ラ・ラ・ランド』に文句言っていないのが私には不思議なくらいだ。ふつうミュージカル映画っていい時も悪い時も歌っちゃうぜ感情があふれちゃうぜ人生は歌だぜ、っていうものだと思うけど、この映画のミュージカルって夢に浮かされた若者たちの曖昧な状態を表現するのに最適ってだけで選ばれた表現形式って気がする。

 

ただ、菊地成孔が怒るのは結果的にはチャゼルの大勝利なのだ。
デイミアン・チャゼルはたぶんすっげージャズおじさんを憎んでいる。特に菊地成孔のような若者が若者だという理由でガーガー言う権利が自分にあると思っているおじさんを憎んでいる。
「夢だなんだというけど、夢を叶えているはずのあんたたちってぜんっぜんいい人生おくっているように見えないんだけど?」
「夢を叶えて有名になったら女にモテる、だぁ?女はもう成功のトロフィーになってくれないんだよ」
『サブカルスーパースター鬱伝』に出てたサブカルおじさんたちはほぼ例外なく女性関係で非道でありミソジニー丸出しなくせに被害者ぶっているクズばかりだったが、たぶんチャゼルはそういう人たちにすっかり幻滅しているのだ。別にそれは彼がフェミニストだからってわけでなく、恋だの愛だのセックスだのでピュアな自分のこころは満たされないと知っているからだろう。なんてったってインテリ白人男性という現在の地球で最強の属性を持っているからこそ、そういう振る舞いにもしかしたら憧れているのかもしれないけど(『セッション』を見る限り)、軽蔑だって強くする。そういう新サブカル男性の気持ちは旧いサブカルおじさんには理解不能だ。ツアーでくそ忙しい中、会いたいからという理由で家に戻ってきてえらく豪勢なディナーを手作りして好きな女性に振る舞うなんてありえないと思っている人にはわからない。

 

そしてけっきょく、チャゼルは手に入れた。自分の思い通りにジャズを語る権利を。それはたぶんセブのような「ジャズの本当の姿を守りたい」人にとっては悪夢のような光景だろう。もはや誰にも止められない。チャゼルが語り、定義する新しい「本当のジャズ」が世の中に蔓延していく様を指をくわえて見ているしかない。
恋も夢もジャズもそれがなんだって言うんだ、セーヌ川に飛び込んだやつだけが次の世界に行けるんだ。

スターダムを見た話

プロレスを見に行く時にいつもいるのはわたしの体だ。一人で行くこともあるし、誰かと二人で行くこともあるし、たくさんの人と一緒に行くこともある。たくさんの人の顔ぶれは常にいろいろだけれども、そこに常にわたしがいることは変わらない。当たり前のことだと言われるかもしれない。でも、月に5回も6回もプロレス興行に行くと、そのことは不思議なことに思えてくるのだ。いくつかの、わたしのいる興行と、とてもたくさんの、わたしのいない興行がある。そして前者には、プロレス興行で初めて顔を合わせる知り合いの知り合いや、わりあいよく顔を合わせる知り合いよりも親しい友だちがいる。彼らはわたしのいない興行にも居合わせる。後楽園の客席を、わたしたちはポイントしてグラデーションを作っている。わたし、わたし以外、わたしの知っている人、悲しい人、怒っている人、お腹が空いている人、酔っ払い……。
どんな人といっしょに行っても、わたしとプロレスの関係は個別的なものだ。初めてプロレスを観る人に説明をしたり、プロレスのことをよく知っている人に話を聞いてみたりしながら試合を見たり、見なかったり、する。

目をつむって試合は見ない時間。それもわたしにはプロレスだ。観客が無言で物がこすれる音ばかりが聞こえ、合間にリングを叩く音。今はグラウンドの攻防だ。歓声が客席の方へ移動した。場外乱闘、南側に登ってきた。天井に驚きの声が滞留する。ああ、入口階段のひさしから跳ぼうとしているのだ。人のグラデーションと感情のグラデーションが混ざり合い、蜂の群れのように濃淡をつけながら後楽園の客席と天井のあいだをうねって体をよじらせる。見分けがつかない。それはもしかしたら昨日のボクシングの試合の歓声だったのかもしれない。目を開く。果たしてそこには立ち上がり情報を見上げる観客の背中が見える。選手など切れ端すらも見えない人の壁。しかし、私にはわかる。波及してくる叫び声にも似た、いま跳んだのだ。その瞬間、ほかの観客の存在は消えて、わたしは弧を描く彼女の足先の軌道にたどり着く。わたしがあげた声とわたしの認識は乖離して、わたしの声は明日まで、もしかしたら明後日まで、これから先もずっとこの空間に残り続けるだろう。

「これからもよろしくね」と知り合いの知り合いの人は言った。いい出会いだな、とは思うけど、言われたことは嬉しいけれど、その言葉に期待はしない。なんの意味も色もつけずに通り過ぎていくように気をつける。むかしはこの言葉に期待した。わかかったのだ。でも、プロレスの試合を出会いの場なんかにしてはいけない。
わたしは一人だと確認しに行く。残るのはその日の試合内容だけ。それ以上のものは、夾雑物だ。